みなさんあけましておめでとうございます、橋爪志保です。
新しい年が始まりましたね。1月は、新しいことを始めたくなる時期でもあります。ちなみにわたしは新しい日記帳を買いました。三日坊主なので、日記は毎年2月末まで続いたことがありませんが、それでもいつも買ってしまいます。だめですね~……。
第8回のテーマは「歌・踊り」でした。バラエティ豊かな歌たちを、おもしろく読ませていただきました。また、今回「公募ガイドオンライン」に募集情報が掲載されたこともあり、少し応募数が増えていました!やったー!うれしいです。
ご応募くださったすべての方に心よりお礼申し上げます。ありがとうございます!
今回は特選1首、秀逸3首、佳作2首をご紹介します。
橋爪志保
2013年に作歌を始める。京大短歌を経て、現在は同人誌「羽根と根」所属。第二回笹井宏之賞にて永井祐賞受賞。2021年4月に第一歌集『地上絵』上梓。Twitter @rita_hassy47
note https://note.mu/ooeai
通販 https://hassytankashop.booth.pm/
自選短歌
I am a 大丈夫 ゆえ You are a 大丈夫 too 地上絵あげる
階段歌壇 第8回「歌・踊り」総評
特選1首
アカペラで声を重ねてゆくようにぶり大根の味は深まる/高梨由登里
「アカペラ」はもともと教会音楽の意味を持つ言葉ですが、楽器を使わずに声だけで歌うこと、またはその様式を表す言葉に転じました。最近では、youtubeで「アカペラ」のグループが活躍していたり、「ハモネプ」などのテレビ番組で「アカペラ」のコンテストをやっているのを見かけるので、比較的身近な存在としてあるのではないかと思います。そんな、ちょっと神聖な感じがしたり、お洒落だったりする印象を持つ「アカペラ」というものに、なんとも渋い料理を合わせてきたのが今回の特選歌です。
まさか「アカペラ」も、「ぶり大根」の比喩に使われる日が来るとは思わなかったでしょう。素っ頓狂な組み合わせです。けれど、どこか説得力があるんです。「聴覚」と「味覚」といううまいずらし方をしているからかもしれません。
または、ほんの少しだけ垣間見える「アカペラ」と「ぶり大根」の単語本来のギャグっぽさ、冷ややかな面白さがうまくマッチしたのかもしれません。いずれにせよ、二つのアイテムが、これでもかというくらいに効いています。歌の中に出てくる単語が他のものととっかえ可能なことを、短歌の批評の用語で「動く」と言いますが、これは絶対動かないだろう、とわたしは思いました。
ちなみに、「味は深まる」というのは、二つ読み方があるのではないか、と思います。まず一つ目は、「ぶり大根」を作っている途中に、だんだん出汁や調味料の味が「ぶり大根」に染みてゆく様子を歌っているという読み。二つ目は、「ぶり大根」を食べたとたんその味が口に広がって、どんどん深みを増してゆく、という読みですね。わたしは前者でとりましたが、どちらでもよいかと思います。
秀逸3首
身長差気にする君にコブクロの魅力を一生懸命語る/白鹿あん
たとえば、恋愛の関係になろうという時に、相手よりも、または世間や自分の中の理想よりも、自らの身長が低すぎる/高すぎることで悩みを抱えてしまうひとは一定数いるようです。どうやら「君」もそういった人間の類で、主体との身長差を気にしているわけなんですが、そんな「君」に、主体は「コブクロの魅力」を語ることで説得をするわけです。しかも「一生懸命」。
「コブクロはとても身長差があるけれど、それが欠点にはなっていないだろ。なめらかなメロディーを奏でていて、ハモりが綺麗で、曲のああいうところが良くて……」みたいな感じでしょうか。確かに、アーティストの「コブクロ」の二人は身長差がかなりあります。
しかし、「君」からしたら、「いやいやあれは音楽ユニットだし!!!恋愛関係の問題じゃないでしょう!!!『コブクロ』の音楽性突然語られても!!!似ているようで話の方向性が全く違うだろ!!!なんでやねん!!!」と思いっきりツッコみたくなるはずです。わたしはツッコみたくなりました。
でも主体は、それがへんてこであることを疑わない。そんな、主体のとぼけたズレ感に魅力を感じました。
主体おとぼけ系の短歌って、とぼけるのをわざとやっているなあ、とか、これはやりすぎだろ、みたいに見えてくると一気に冷めてしまうものなんですが、これはそこらへんの温度感覚がうまいこといっています。「一生懸命」がいい味を出しているのかもしれません。
いつかくるおわりを思うアレンジで変わった間奏すごく明るい/海野いづれ
「いつかくるおわり」が、何のことを指しているかは、歌の中では明示されません。「きみとぼくの関係性のおわり」かもしれませんし、「この世のおわり」かもしれませんし「青春のおわり」かもしれません。けれど、「おわり」はなんだかそれだけで寂しいものがありますし、ましてやそのものごとがおわってもいないときに「おわり」のことを考えてしまうことはもっと寂しいことなのかもしれません。
そんな初句・二句のもの悲しさから一転、三句目以下では「明るい」ものが提示されます。「アレンジで変わった」というのだから、元の歌はそれほど明るくもなかったのでしょう。だから、元の歌と比べてみるとよけいに「アレンジ」の明るさが際立ちます。そう、「アレンジ」という行為自体が「すごく」をつけるまでもないほどの強調表現なのです。
しかし、本当に三句目以降はただ「明るい」だけの描写なのでしょうか。
「アレンジ」という行為は、元の歌ありきで行われます。元の歌が変えられてしまったという、一種のさみしさが生じているような気が、わたしにはします。(「いつかくるおわりを思う 流れてる曲の間奏すごく明るい」(改悪例)と比較してみると、よくわかるかと思います。)
また、これでもかというほどに「明る」さを描いた三句目以降は、逆にもの悲しさや空虚さを誘導しているような気もします。こう考えると、「明るさ」って、いきすぎると寂しいものなんだなあということがわかります。
剛くんの横で踊る夢を見た光一くんだったのか私は/遠藤玲奈
思わず笑ってしまった歌です。剛くんと光一くんというからに、おそらくKinki Kidsの話をしているんでしょう。
上の句だけを読むと、下の句ではたとえば「(剛くんは)かっこよかった」とか、「現実じゃなくて夢で残念」みたいな話に落ち着いてしまいそうだな、と思いがちです。「(一般的に)素敵な夢」、「アイドルの話」という先入観がそうさせてしまうのです。ところが、この歌はそうではありません。「私」は夢の中で「光一くん」に憑依(?)したのかもしれない、というのです。
まず、夢の中で「私」が「私」でないという可能性について思いを巡らしていることがすごいです。その上、例えば横のほうまで近づいたバックダンサーとかではなくて、「光一くん」という「(一般的に)すごい人物」になっていると真っ先に思う主体の「まがまがしい強さ」もすごいです。下の句のぽかんとした口調もまた、よく効いています。
同じ作者の〈紅組と白組が束になっても細川たかしに勝てぬと母〉も面白かったです。細川たかしファンのコミカルな母の存在自体もいい取り上げ方をされているなと思いましたが、なんといっても一番は、「束になっても」の一言ですね。笑いを誘います。
ただ、どちらの歌にも言えることなのですが、あまり韻律が良くないような気がしています。
「剛くん/の横で踊る」「細川たかし/に勝てぬと母」のような助詞が句のはじめに入ってしまう句またがりは、韻律としてはガクンとしていてあまりなめらかとはいえないのです。なぜかというと、初読では「剛くんの」(初句6音)、「細川たかしに」(四句8音)と読んでしまいがちになり、その結果字足らずが生じるためです。字足らずはかなり高度な技で、ここぞという時にしかあまり効果を発揮しない印象があります。(「白組が束/になっても」は目線がうまくいくので上記2か所ほどではないのですが)。
なので例えば、「隣で踊る」「勝てないと母」などと、字余り上等で処理していくほうが読みやすいかと思います(もちろん最終判断は個人にゆだねられますが)。
佳作2首
ほんとうの芝の上でツイストをした ほんとうの芝だと思ってたから/西田似愉
ツイストとは腰をひねる動きをするダンスのこと。芝の踏み心地を確かめるかのような動きです(キュッキュと足が動くので、きれいな芝の上でやると芝が傷みそうですが)。
「ほんとうの芝だと思ってたから」ということは、「ほんとうの芝」ではなかったのでしょうか。でもさっき、「ほんとうの芝の上で」って言ったよね……?そもそも「ほんとうの芝」って何?プラスチックみたいな作り物の芝じゃないということでしょうか。人工芝じゃないということでしょうか。
わからないことはたくさんある歌ですが、芝が「ほんとう」であることに並々ならぬ執着を感じますし、そんな強い気持ちが比較的鮮度を保ったまま、歌の中に凝縮されているような気がしました。
幸せな満員電車の中にいてあなたの歌を全身で聴く/観月サナ
満員電車の中、イヤホンで音楽を聴いているのでしょうか。満員電車は基本的に居心地が悪いものなので、「幸せな満員電車」という形容にまずぎょっとします。ところが、下の句でなぜ「幸せ」なのかがわかる仕組みになっているんですね。「全身で」というのがうまいところで、満員電車の中で全身で体感する人々の「圧」と、イヤホンで音楽を聴くときの「全身が音楽に包まれている感」が両方伝わってきます。
「あなた」ということは、親しい間柄のひとと読んでもいいかもしれませんが、歌手などに親しみを込めて言っていると読みました。だって、「幸せ」なんですものね。
まとめ
以上です。掲載された方、おめでとうございます!素敵な歌をありがとうございました。
今回ははじめて短歌の投稿をして下さった方が多かったのかな?という印象でした。階段歌壇にご投稿いただき、たいへんうれしいです。ありがとうございます。今回はそういった方のための話をいくつかします。
短歌をはじめたばかりの方の作品によくみられることなのですが、句(57577のブロックのこと)の間に、全部1マス間をあけてあるものが時々投稿作の中にあります。
1マス、あけたい気持ちはわからないでもないのですが、あける必要は全くありません。続けて書いて大丈夫です。むしろ、あけ方がやたらめったらだったりする場合、特に理由が見当たらないような内容なのに句ごとに全部分かれている場合、採用する可能性は残念ながら薄いです。
短歌での「1マスあける」行為は、ひとつの技法です。文脈を途切れさせたいとき、あけないでおくと表記の関係で意味がとおりにくくなってしまうときなどなど、あける理由は様々ですが、あける必要がある、と確信したときにだけあけるようにしてください。
また、これも短歌をはじめたばかりの方の作品にまれにみられることなのですが、おそらく「5・7・5・7・5」を定型と勘違いしているのかな?と思われるものなども時々あります。
口に出したときのおさまりはたしかにこちらもよいのですが、短歌の定型は「5・7・5・7・7」です。今回の評の中にも書きましたが、字足らずはけっこう高度な技で、逆の字余りほど気軽に使える技ではないというのが個人的な印象です。
韻律の良しあしというのは、絶対的な硬いものさしがあるわけではないので指摘するのは難しいのですが、既存のいろいろな歌をまずは読んでみて、短歌のリズムや言葉の流れる感覚を育てることから始めてみてください。
また他にも、短歌の定型を意識しすぎるあまり、助詞を抜きまっているという歌もときどき見かけます。階段歌壇にご投稿くださる多くの作品が口語短歌なのですが、口語のなめらかさには、助詞が意外と重要だったりします。助詞を抜くよりも、字余りさせたほうがうまくいく場合もありますので、作る際にはじっくり検討してみましょう。
あと、これはお願いなのですが、「備考欄」は表記についての注釈のみをお書きください。歌の意味や解釈などは不要です。また、丁寧にご挨拶を書いてくださる方などもいらっしゃって、気持ちはとてもとてもありがたいのですが、匿名というシステムの公平性が失われてしまいますので、すみませんがご遠慮願います。
以上の内容も含めて、階段歌壇の投稿ルールとこれまでの記事で紹介してきた短歌の基本を記事にまとめました。はじめて投稿する方は必ずご確認ください。
今回でテーマ詠は終わりです。次は自由詠でいきたいと思います。テーマや題はありません。ご自由に投稿してみてください。
第9回階段歌壇 募集要項
- テーマ なし(自由詠)
- 応募期間 2020年1月5日〜25日
- 発表 2021年2月上旬(TANKANESS記事内で発表します)
応募フォームに筆名、メールアドレス、短歌を記載のうえご応募ください。
<注意事項>
- 未発表の自作の短歌に限ります。(掲載された短歌は既発表作品となります。)
- 1人3首まででお願いします。(1つの応募フォームで3首まとめて応募が可能です)
- はじめての投稿する方は投稿ルールを必ずご確認ください。
いただいた歌は、すべて選者(橋爪志保)が目を通して選をし、上位者の歌とコメントを発表します。
また、入選作のなかから最もよかった短歌を「特選」とし、短歌に関するデジタルグッズ(スマホ用壁紙など)を賞品としてお送りします。
そこのあなた、あなたの短歌をわたしに読ませていただけませんか?
この記事を書いた人
橋爪志保
2013年に作歌を始める。京大短歌を経て、現在は同人誌「羽根と根」所属。第二回笹井宏之賞にて永井祐賞受賞。2021年4月に第一歌集『地上絵』上梓。Twitter @rita_hassy47
note https://note.mu/ooeai
通販 https://hassytankashop.booth.pm/
自選短歌
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