短歌の企画者に話を聞いてみた~「短歌ヴァーサス」荻原裕幸さん編~

企画

こんにちは。牛隆佑(うしりゅうすけ)です。短歌を作ったり短歌の活動をしたりしています。「短歌の企画者に話を聞いてみた」も第8回を迎えました。そして今回でいったんの最終回になります。

2000年代の短歌シーンを振り返ると必ず挙がるのが短歌誌「短歌ヴァーサス」で、現在のシーンにまで影響を及ぼしています。今回は責任編集の荻原裕幸さんにお話を伺いました。

 

「短歌ヴァーサス」責任編集 荻原裕幸さんインタビュー

「短歌ヴァーサス」とは?

牛:最近短歌をはじめた方は「短歌ヴァーサス」の名前さえ知らない人も多いはずですので、まず概要から押さえておきたいと思います。

ここでは簡単に、名古屋の出版社である風媒社が発行し、荻原さんが責任編集を務めた「季刊短歌誌」として進めていきます。第1号は2003年5月の刊行です。「季刊」とありますが、一号しか出なかった年もあるので、結果的に実態としては不定期刊行ですね。また、「歌葉新人賞」とは関わりが深く、「短歌ヴァーサス」の重要なコンテンツになっています。

より詳しく知りたい方は、2020年に出版された『ねむらない樹別冊 現代短歌のニューウェーブとは何か?』(書肆侃侃房)の中の「短歌ヴァーサス、歌葉のころ」という項目で、8名の歌人によってまとめられている文章をご参照ください。1人目の執筆者の大井学さんの文章には、各号の特集や各連載の記載もあり、把握に便利です。 

私事で恐縮ですが、僕が短歌に興味を持ったのが2008~9年といった時期で、書店でたまたま手に取った「短歌ヴァーサス」が、短歌との最初のアクセスでした。ただ、最終号(第11号)の刊行は2007年10月なので、終刊後です。

荻原:そうですね。「短歌ヴァーサス」は商業雑誌よりはムックに近いものです。1号、2号という数字の推移に意味を持たせたいとは思っていましたが、雑誌だと2号が出た時に創刊号が返本されてしまいます。なので、書店には創刊号から最新号まで並べられるように、ムック本の扱いにしたいと考えていました。

牛:まさしく、それで短歌に出会えました。これが現代短歌かと夢中になって読みました。

荻原:出会いというのは色々ありますね。個人的なことを言えば、私もたまたま手に取った雑誌の「短歌」(角川書店)が、私の師匠になる塚本邦雄がちょうど読者歌壇の選者だった号で、やっぱり「たまたま」なんですよね。最終的にはみなさん短歌の世界に来るべくして入ってくるような気もしますけどね。

 

「短歌ヴァーサス」のタイトルと表紙

牛:外側から見ていくと、まず「短歌ヴァーサス」というタイトルです。「短歌vs〇〇」ということですが、これは荻原さんの考案ですか。

荻原:そうですね。私は関わった本のタイトルには自分のアイデアを強引に残していくタイプなので(笑)

「短歌vs短歌」だったのかな。具体的な対象は考えていませんが、様式として「対峙」の意識がありました。カタカナ語をタイトルに入れたいという風媒社の意向もあったと思います。

牛:僕は最初に「短歌ヴァーサス」に出会ったので、「これが現代短歌の〝普通〟だ」とインプリンティングされました。でも、後から考えると、既存の短歌観へのオルタナティブ的な価値観の提示であることがタイトルに示されていたんですね。

表紙もユニークです。枡野浩一さんや穂村弘さんなど、特集の歌人の人物写真が表紙になっています。短歌誌の表紙ではかなり珍しいですよね。

荻原:はい。私のアイデアです(笑)

業界誌では、その業界の顔になる人物を表紙にすることがあるので、その歌人の特集号なら良いだろうと。しかも、創刊号以外は撮り下ろしでした。

牛:写真家の入交佐妃さんによる撮影ですね。

荻原:入交さんに依頼するのは、私の冒険でした。入交さんはそもそもあまり人物写真を撮らない、カラーを撮らない写真家だったのですが、私はカラーの人物写真に本当の力が出るのではないかという興味があって、それを個人的に見たいと思って依頼したんです。

牛:最終号は無人の公園の写真です。先述の『現代短歌のニューウェーブとは何か?』で、石川美南さんが「ヒーロー不在の世代という意味ですか」と荻原さんに尋ねたと書いています(「歌葉、短歌ヴァーサス、そのおわり」)。

荻原:いや、「ヒーロー不在」というか、最終号の特集は「わかものうたの行方」で、そこに私が結論を出してはいけないという意識はありましたけどね。

牛:たしかに。この特集内容で誰か、たとえば斉藤斎藤さんなりを表紙に推し出すとなると……

荻原:そうです。それは違う。斉藤斎藤さんは、後の時代の短歌誌の表紙に載ってくれればいい。むしろ、加藤治郎さんと穂村弘さんと私の黄昏れた後ろ姿の写真を載せるなら、アリだったかもしれないですね(笑)

「短歌ヴァーサス」創刊号表紙と第11号(最終号)表紙の画像

「短歌ヴァーサス」創刊号表紙(左)と第11号(最終号)表紙(右)

 

「短歌ヴァーサス」創刊のきっかけ

牛:創刊のきっかけについて教えてください。

荻原:2003年5月創刊なので、話はその前年から動いています。版元の風媒社の編集長とは地元のつながりがあって、「何か面白いことしたいね」という話は定期的にしていました。

他にも「最近、短歌が面白い」とか「名古屋から短歌を発信したい」とか、いくつかの思いが重なって、徐々に話がまとまっていきました。私が歌の世界に欠けていると感じていたものと、風媒社さんが市場に持ち出そうとしたものが、一致したんですね。

その当時、短歌の世界では「短歌の本は売れない」と言われていました。ただ、その外側の人たちは面白いと言ってくれていました。風媒社さんも「いや、これは普通に本を作ればいいんじゃないか」というニュアンスでアプローチしてくれていました。だったら、歌壇が商業的な意味や、あるいは歌壇のヒエラルヒーの問題で取り上げないような特集を組めばいいと思って、何号分かの特集をイメージして始めました。

牛:特に創刊号の特集は「枡野浩一の短歌ワールド」です。第2号が「穂村弘〈短歌〉の劇場」。

荻原:そうです。歌壇の雑誌が組めるような特集では「短歌ヴァーサス」の意義がありません。短歌の内外でいうと、当時ボーダーとされる場所に枡野さんの読者はたくさんいて、読者層のど真ん中ではなくとも、かなり関心のあった歌人の特集になるだろうと。それに、歌壇の雑誌で、枡野さんのことがまったく語られていなかったこともあります。

始まった瞬間に崩壊するか、すごくうまくいくかのどっちかだなと関わる人間としても思っていました。枡野浩一や穂村弘の特集は、今だと順当な組み方に見えるかもしれませんが、当時としては冒険、いや、冒険のもうちょっと先だったと思います。

牛:僕が読みはじめた頃には、すでに入手困難になっていましたが、発行部数はどれくらいだったんでしょうか。

荻原:たしか最大時で3000部でしたかね。新宿の紀伊国屋さんが創刊号を100部平積みしてくれたらしくて、「ああ、本はこうやって動くのか」と当時は強気になったのを憶えています。

 

創刊前夜

牛:当時の周囲の状況について伺いたいです。どのような前提や背景があったんでしょうか。

荻原:できるべくしてできたのではない気がしますが、周辺に「短歌ヴァーサス」を準備するような状況はありました。

1990年代からインターネットが普及して、当時の歌壇では評判の悪かった「ネット短歌」のエリアが生まれました。それから「tk」や「現代歌人会議(GK)」といった少数精鋭的な歌人たちのメーリングリスト(※メールの複数送信機能を利用したコミュニケーションツール)のグループができました。そのなかで短歌の議論などを行っていました。

牛:SNSが登場する以前のインターネットのコミュニケーションですね。

荻原:これらは坂井修一さんや加藤治郎さんが起ち上げに関わっていて、元々歌壇でつながりがあったグループです。私が「ラエティティア」(短詩文芸グループのメーリングリスト。運営は荻原裕幸。1998年~)を設立したのはその後です。これらはネット上の、メディアを持たないグループの広がりです。活発に活動していましたが、メディアがないので着地点がありませんでした。これがメディアを求める要素の一つでした。

それから、2000年を過ぎて、加藤治郎さんがオンデマンドの歌集レーベル「歌葉」を起ち上げました。「歌葉新人賞」はそのレーベルの窓口を広げるための賞だったんです。「短歌ヴァーサス」とは元々別に進行していましたが、時期が重なったので、コンテンツとして引っ張ろうと。

そして、ネットを通してのイベントの他にも、1990年代の後半からオフラインのイベントが活発に行われる状況がありました。歌壇の集まりではなく、それこそ2010年代に牛さんが企画するようなイベントです。

批評会もそうですし、最もはっきりと現れたのは「マラソンリーディング」(短歌朗読イベント。運営は田中槐ら。2001年~2015年)などの短歌朗読のイベントですね。きっかけになったのは1998年の武蔵大学の大学祭です。詩人主催のポエトリーリーディングに岡井隆さんと岡野弘彦さんと私が呼ばれました。岡野さんが朗読の途中でほら貝を吹きはじめてね。その時に客席にいたのが、後に「マラソンリーディング」の中心人物になる田中槐さんです。

牛:そうつながるんですね。

荻原:ただ、媒体がない。今はYouTubeなりに残せますし、2カ月後にその朗読会を短歌総合誌が特集に取り上げても誰も驚きません。でも、当時は絶対にあり得ません。そのような誌面に落としどころのないイベントは「短歌ヴァーサス」で抱える以外に行き場所がない、という認識はありました。

あまりにニッチになっては駄目だけれども、これだけみんなが動くものなら、共通した要素を誌面に落とし込めれば、その人たちも読者という仲間になってくれるだろうと考えていました。そのようないくつかの周囲の状況が整っていたのはありますね。

牛:今の話を聞くと、創刊前夜の空気感がよく理解できます。何もないところに突然生まれたのではないということも。

荻原:ええ。お金の力は何も生まないので、人の力がないとそうしたものは生まれません。

 

歌人の「責任編集」

牛:「責任編集」の仕事は内容全ての舵取りとのことですが、メインの仕事として関わっていたんですか。

荻原:いえ、そんなことはないです。作者さんたちに印税ではなく原稿料を払うとなるとそこまで予算が出ないのは私も分かっていたので。とは言え、価格(1000円。最終号のみ1400円)を上げるのも問題があって難しくて。

牛:そうだったんですね。てっきりメインの仕事だと思っていました。

荻原:それは今も微妙に思っています。こちらも仕事として取り組めれば、さらに時間を費やせたし、直接的に売上のことを考えながらできたかもしれません。でも、そうなるともっと純粋な商業誌に寄ってしまった気もします。

牛:どの時代で振り返っても、特殊なスタンスの雑誌だろうと思います。

荻原:そうですね。第11号で終わりましたけど、最初からそれくらいの寿命だった気もしますね。書肆侃侃房さんが発行している短歌ムック「ねむらない樹」の編集スタッフが、歌人から出版社の編集者に戻りましたよね。それは良い状態じゃないかと思います。

私は、「短歌ヴァーサス」の時に疲労し尽くしてしまいました。これは給料をもらってプロがやる仕事であって、歌人が創作をしながら兼任すべきではないと思いましたね。

牛:なるほど。

荻原:不快になる出来事はなかったですが、純粋に疲れました。自分の中にあるものを吐き出しきらないといけないですし、売上のために作る誌面じゃないので、ある意味では嘘が吐けなくなるんですね。でも、読者に向けたものなので、もっと柔らかく変換しないといけない、その作業で心身ともに困憊しました。

それに、編集者からは同業者と見なされるので、その期間は原稿依頼が来なくなります。私はその期間、依頼がめちゃくちゃ減りました。結社にも所属していなかったので、ブログに作品を書いていましたから。

牛:まさしくそのブログを読んでいました。

荻原:その世界を牛耳るというか、歌壇政治的に自分の有利な状況を作るためなら有効ですが、青臭いことを考えながらやる仕事じゃない気はしましたね。本職の編集者がするべき領域に踏み込んだので、とても疲れたんだと思います。

ただ、自分たちの力で、総合誌や出版レーベルや新人賞を組み立てられるんだという可能性を提示できたのは良かったかもしれません。2010年代にみなさんがナチュラルにいろんな企画をしていましたよね。現在の短歌の盛り上がりにつながる2010年代の動きに対して、多少ヒントになれていたのかな、と少し思いながら、今日の状況をにやにやして眺めています。

牛:それは大いにあったんじゃないでしょうか。少なくとも僕は「短歌ヴァーサス」の、とりわけ荻原さんの連載「短歌と[場]」、それに加藤治郎さんの「短歌の現在」は、自分の活動の教義になっています。

荻原:直接の影響がなくても、短歌を取り巻く雰囲気がそうなったのなら、それは良かったなといつも思いますね。

 

読者歌壇について

牛:「短歌ヴァーサス」に読者歌壇(投稿欄)がないことについて伺います。短歌の読者になった頃に他の短歌総合誌も読みましたが、あまりピンときませんでした。後で考えると、それらの総合誌には読者歌壇があって、作者を読者に想定した構成なので、まだ短歌の作者ではなかった自分は、総合誌の想定読者ではなかったのかなと。

「短歌ヴァーサス」も、実際のところ読者には短歌の実作者が多かったと思います。ただ、【歌人の読者の部分】を相手にした記事構成だったからこそ短歌の読者でしかなかった自分にも、誌面全体が面白く読めたのかもと思いました。

荻原:そうですね。投稿そのものは受け付けていましたが、いわゆる読者歌壇を作ると師弟に近い関係になりますよね。それはすでに別の場所にあります。それに、親切なレクチャーという点では、何をしても短歌結社に適わないんですよ。その点では結社は理想的な場所だと考えていたので、踏み込む必要はないだろうと。

あるいは俳句・現代詩・川柳・小説などの隣のジャンルの作者を読者として意識すると、作歌のノウハウを扱うような特集は、一回限りで珍しがってくれるかもしれませんが、それ以上はないですよね。それに、読者歌壇は私自身、総合誌を読む時に読み飛ばしてしまうページなので、それはやはり自分で誌面を作る時には設けないですよね。

牛:売上を考えると、たとえば荻原裕幸・加藤治郎・穂村弘が選者を務める読者歌壇はとても有効だったと思うんです。

荻原:もちろん、運営は安定しますし、依頼すれば可能だったと思いますが、党派的な要素が強くなりますよね。それはいかんだろうとは思っていました。だから、もしも第20号くらいまで続いて、2010年代に入って周囲の状況が変わってきたら、企画として話が出たかもしれないですね。でも、少なくとも2000年代にすることではなかったと思いますね。

それに、「歌葉新人賞」で新人の発掘はできるだろうと考えていたはずです。したかったのは「指導」じゃなくて「発掘」なんです。新しい人に出会いたかった。

 

歌葉新人賞の選考方法

牛:話題に出たので「歌葉新人賞」のことを伺います。歌集レーベル「歌葉」のための新人賞で、5度実施されました。選考委員は、加藤治郎さんと穂村弘さんと荻原さんで、第1回から順に、増田静さん、斉藤斎藤さん、しんくわさん、笹井宏之さん、廣西昌也さんが受賞しました。

ほかの短歌の新人賞と比べてちょっと変わっているのは、作者名が分かった状態で選考する点と、選考過程をネット上や選考会などで、リアルタイムで公開した点です。

作者名が分かった状態で選考した理由はどうしてでしょうか。「短歌ヴァーサス」でも言及されていますが、作者の連続性、他に普段どのような短歌を作っているかも踏まえて考えられる、という点ですか。

荻原:そうですね。もちろん、他での作品や活動が加点にはなりませんが、どういった人が応募しているかを、できるだけ知りたいというのはありました。自分たちそれぞれが100%推せる人を見つけたいという理由ですね。でも、着地点は想定できていませんでした。たとえば、斉藤斎藤さんのようなタイプの作家が出てくるとはまったく思っていませんでした。

牛:どの新人賞も大変だろうと思いますが、特にこのシステムは選考委員にとって過酷じゃないですか。

荻原:大げさじゃなく、死にかけました。何が大変って、選考の議論をしている右斜め前方で、すごく澄んだ目でこちらを見つめているわけです。応募者が離れた場所にいても恨まれがちなのに、それを目の前でする。私には何の資格もありませんから、偽りや処世術ではなく、短歌観を説明できないところまで深く掘り下げて選ぶしかない。いつもこちらが追い詰められましたね。

牛:そのシステムを選択したのは、既存の新人賞への抵抗感や違和感があったんでしょうか。

荻原:夢見ていたんじゃないですかね。自分たちの実力は置いておいて、「本来、新人賞はこうあるべきだ」という理想像があるわけです。加藤さんが「理想を貫くべき」と言って、穂村さんが「えぇっ?(加藤さんが言うならやるしかない)」と言って、私が現実的にできる方法を探すんです。それで、理屈上はできる仕組みを考えますが、理屈上なので、現場は修羅場になるんです。

牛:三人のやりとりが浮かびます(笑)

荻原:すごいことをやったのではなくて、青臭いことをやったんです。良い作者さんが応募してくれたので良かったですが、方法として妥当かは今も疑問です。良い面もありましたが、もっとソフトな方法もあったかもしれない。本来は順位なんて付かないものに順位を付けて、しかも好き嫌いではない価値観で選ぶので、否定の度合いも強くなります。そのことで傷ついて短歌から離れていった人もいただろうと思います。

牛:データを振り返ると、応募数が100篇弱です。たとえば、書肆侃侃房主催の笹井宏之賞の第1回(2019年)の応募数が400篇を超えるのと比較すると、当時と今の短歌人口の差を考慮しても、少なく感じます。応募する側もそれだけ厳しい場という認識だったんでしょうか。

荻原:どうでしょうか。選考委員がそれぞれに嫌われていたり、信頼されていなかったりしていたかもしれませんね。

牛:いやいやいや。でもたしかに、引いた視点で見ると、かなり偏りのある顔触れにはなりますね。

荻原:数の多い少ないはそれだけではないでしょうけど、ハードルは必ずしも低くなかったでしょうね。

 

歌葉新人賞応募作の性質

牛:「斉藤斎藤と笹井宏之を輩出した賞」とよく言われますが、個人的に印象深いのは候補作の中島裕介さん(「無菌室に居るための舞踏譜」)や、謎彦さん(「幻 ~Do Minamoto Yourself~」)や、島なおみさん(「エデンプロジェクト -わたしは世界を席巻する-」「すべての海はバスタブにつながる」)や、鈴木二文字さん(「たんかっち」)でした。びっくりする大胆なレイアウトや構成で、現在のどの新人賞でも選考が困難だろうと思います。

島なおみ「すべての海はバスタブにつながる」の画像

第7号・島なおみ「すべての海はバスタブにつながる」一部

荻原:そうですねえ。良し悪しの前に、言語化して選評するのがとても難しいですよね。もう一度やれと言われても無理かなと思いますね。でも、今こうして牛さんが記憶しているのは、作者たちにとっていいことだと思います。

牛:不思議なのは、中島さんや謎彦さんは第1回の応募です。それらの作品が候補作になった上での第2回目以降は分かります。第1回からあれらの作品を応募できたのはなぜでしょうか。

荻原:どこかつながっている意識があったんじゃないでしょうか。我々の短歌が、モダニズムの短歌や現代詩をイメージできるものだったので、これくらいの作品は受け入れるのが三人の義務だと考えたんじゃないでしょうかね。実際に、モダニズムの短歌として読めますし、面白いとも思えました。

牛:たしかに、「短歌ヴァーサス」には新人賞だけでなく、普段の誌面にも玲はる名さんの「CUBE@aGX」などが掲載されていました。今でも捉え切れたとは思っていませんが、この作品を「短歌として」読んだ当時の衝撃というか感動をよく憶えています。

玲はる名「CUBE@aGX」の画像

第11号・玲はる名「CUBE@aGX」一部

 

荻原:私の記号短歌<▼▼雨カ▼▼コレ▼▼▼何ダコレ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼BOMB!なども、何を考えていたのか自分でもよく分からないんですよ。ただ、短歌総合誌には記号短歌の連作を出さなかったんです。

たとえば、一番有名な「日本空爆1991」は、 俳人・小川双々子さん主宰の結社誌「地表」での戦争の特集にゲストに呼ばれて提出した連作です。俳句の結社誌だし、自分の信念は曲げずに大胆にやってみようかと思って載せてもらった作品です。まさかそれを誰かが発掘して取り上げるなんて思ってもいませんでした。やはり、媒体によっては拒絶されるということがあるんですね。

牛:そう考えると、「短歌ヴァーサス」のメディアは、多様な作品発表の場としても必要だったんだなと思います。

荻原:必要性はともかく、有効に使ってもらえたんでしょうね。

 

歌葉新人賞の短歌

牛:荻原さんが印象に残っている作品を挙げていただけませんか。

荻原:編集する側の人間が挙げるのは難しいので、歌葉新人賞からにしましょうか。笹井宏之さんの応募作「数えてゆけば会えます」の1首目。

「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい/笹井宏之
第4回歌葉新人賞受賞作「数えてゆけば会えます」

牛:名歌ですね。

荻原:そうですね。おそらく印刷物としては初出のはずです。

牛:しかも、受賞作の二首目には<真水から引き上げる手がしっかりと私を掴みまた離すのだ>があり、四首目には<拾ったら手紙のようで開いたらあなたのようでもう見れません>もあります。他にも代表作のオンパレードですね。

荻原:逆に見落とさなくてよかったなと思いますね。第3回候補の永井祐さんはきちんと引っ張り上げられなかったなという反省があります。我々の節穴的なところですね。でも、やはりすぐには見えてこないものがあるんじゃないかなと思います。

牛:受賞作は5作ともすべて印象深いです。第3回のしんくわさんとか。

卓球やあらゆる間接キスなどに負けるわけにはいかない僕らだ/しんくわ
第3回歌葉新人賞受賞作「卓球短歌カットマン」

荻原:すごいですよね。受賞させちゃったもんなあ。たぶん、将来性とか商業性とかの雑念が入ったら、しんくわさんの作品は上位に入ってこないですよ。「でも、これ面白いよ」というだけで選んでいますから。

牛:しかも、さきほどの「すべての海はバスタブにつながる」(島なおみ)はこの回の候補作です。これらを並べて審査するという……

荻原:正気の沙汰じゃないですよ。

牛:個人的には第4回候補作の瀧音幸司さんの「ユンボと水平線」に思い入れがあります。短歌を作りはじめるきっかけになった作品でした。

もうダメだおれはこれから海へ行くそしてカモメを見る人になる/瀧音幸司
第4回歌葉新人賞候補作「ユンボと水平線」

荻原:よく憶えています。めちゃくちゃ好きな歌ですね。

牛:後に本人に伺ったところ、先鋭的な作品が並ぶなかで「私」が主体になった生活詠がかえって引き立ったのではとおっしゃっていました。

荻原:労働者の日常詠ですね。もう一回作ろうと思っても作れない世界ですね。このメンバーを同じ誌面に並べるのはもう一生ないでしょうね。

歌壇と、商業出版としての短歌と、ニッチな部分も含めてネットの短歌とがあって、私は歌壇が無くなってしまうと短歌が滅びると思っていますが、歌壇だけにもならないように、三国志の天下三分の計みたいに、常に「ヴァーサス(vs)状態」になるようにという意識は持っていましたね。そのために足りない部分を補っていこうと。

 

終刊の理由と以後

牛:終刊の理由について伺ってもいいものでしょうか。

荻原:やはりまず、創刊当初の頃に比べて、売上に伸びがない状況でした。運営的に立ちいかないことはなかったんですが。ただ、役割を果たしたというか、ある程度のことはできたので区切りを付けようという話になりました。最終号には展望を示す特集「わかものうたの行方」を組んで、編集も私が全部をするのではなくて、ひぐらしひなつさんと佐藤りえさんに入ってもらいました。

牛:加えて、さきほどの責任編集としての荻原さんの仕事量を考えると、とても続けていられない感じはします。

荻原:まあ、それもあったかもしれませんね。終刊後に虚脱状態になったんですよね。いや、終刊前になっていたかもしれない。本来、自分は作品を追い続けていきたかったのに、編集がそれほど創作のモチベーションを上げなかったので、ちょっと重かったかもですね。

牛:荻原さんの連載「短歌と[場]」を読んでも、荻原さんの関心はあくまでも作品にありますよね。短歌を巡る場の問題も、場が短歌にどのような影響を及ぼすかという視点を前提にしています。

荻原:そうですね。歌会などだけではなく、メディアも場だとある程度は考えたのですが、メディアを作るのは少し違うかなと思いましたね。むしろメディアを作る人間は、商業的か政治的な意図がないと無理なんじゃないか。だから、中身が良くなるかは別として、私が仕事として編集をしなかったのは良くなかったのかなと思うんです。

牛:非常に難しい部分ですね。

「短歌ヴァーサス」以後のことについて伺います。さきほど「役割を終えた」とおっしゃっていました。それは、「短歌ヴァーサス」の歌人たちが、歌壇で活躍するようになっていったことも含むと思います。

反面、第2号での加藤英彦さんの記事「膨張する〈歌壇〉」には「折角、歌壇の旧弊に煩わされない〈場〉を創出したのですから、これからはそのひとつひとつが最も厳しく孤立することが求められているのだと思うのです。(中略)少なくともいつの間にか旧来型の歌壇に取り込まれ、あれは一時的な現象であったなどということだけは絶対に避けたいものです。」とあります。「歌壇に食い込んだ」は視点を変えれば「歌壇に取り込まれた」ようにも見えてしまいますが、荻原さんはどう捉えていますか。

荻原:それは両面ありますよね。取り込まれないと意味がないし、だから歌壇はどんどん膨張しないといけないんですね。自分はやりたい・やってほしい、けれども、それまでの歌壇がやらなかったことや、まだできないだろうと思っていたこと、それを「短歌ヴァーサス」で行ったわけです。なので、短歌総合誌に取り込まれて何らかのかたちで反映されていくのは、とても爽やかな気持ちで眺めていました。ただ、実際はもちろん個々の歌人たちや編集部の動きなので、私が何かを成し遂げたというよりも、私の希望する方向に動いてくれたと言うべきですね。

 

終刊以後の短歌界

牛:「短歌ヴァーサス」終刊以後の2010年代の短歌の世界で感じる変化はありますか。

荻原:大きく変わったのはコミュニティの在り様ですかね。

ネットの「うたの日」(毎日歌会が実施される短歌投稿サイト。管理人はのの。2014年~)がすごく象徴的な場で、ネット上で投稿や批評をするのは以前にもありましたが、1990年代はちょっとクオリティ的にどうだろうか、というものでした。システムは変わらないのに、クオリティは相当上がりましたよね。まだ参加したことはありませんが、私自身も楽しめる場だと思います。

あと、決定的に変えたのは文学フリマ(文学特化の同人誌即売会。主催は文学フリマ事務局。2002年~)などの即売会じゃないでしょうか。それまでも結社に縛られない自由な場として短歌同人誌がありましたが、それらが目指したのは結社誌の小型版、自由な結社誌なんですね。ただ、結社誌の機動力には対抗できなくて、必ず自然に消えていきました。

ところが、文学フリマが機能してからは短歌同人誌が、マンガの同人誌に近いイメージになって、不定期刊への乗っかりやすさが生まれたように思います。だから、1年2年と期間が空いても存在していられる感覚になったんですよね。私が参加する「短歌ホリック」(短歌同人誌。発行人は荻原裕幸。2016年~)もこの2年発行していません。

牛:さきほどの加藤英彦さんの言い方に従えば、「最も厳しく孤立」している部分じゃないかと思います。「孤立」よりも「自立」が適当かとは思いますが。でも、「うたの日」もそれぞれの同人誌も、歌壇への追随でも対抗でもない自立した存在ですが、そこに参加する個人の関係性で地続きになっていると思います。ある人が結社に所属して、「うたの日」に投稿して、同人誌を作って文学フリマに出店するというような。

荻原:若い世代のプロフィールを見ても、同人誌だけでも複数に所属するなどして、所属がとても軽いものになりましたよね。

牛:そこで思い出すのが「ラエティティア」です。『現代短歌のニューウェーブとは何か?』(書肆侃侃房)に、2001年の荻原さんと加藤治郎さんの対談が再録されています。その記事のなかで「ラエティティア」について触れられています。特徴として、「自由放任」「水平型」「結社にも所属するなど複数入会」などと挙がっていて、今に近い感覚がすでにあったのではと思います。「ラエティティア」は短歌界全体から見ると、先鋭的な一部分だったのだろうと思いますが、その雰囲気が一般化していったのが、「短歌ヴァーサス」以後の時間だったのではと思うんです。

荻原:そうですね。いわゆる短歌のクラスタとそれほど変わらないかもしれないですね。それぞれの活動が多岐に渡って、他人から認識できなくなった時点で「無所属」を含めた「所属」という言葉に意味がなくなるんでしょうね。それは理想的な状態なのかもしれません。でも、主に出版関係の事情で序列は表れてきますから、何となくその人がどこをメインにしているかというのは、いつまでも消えないような気はしますね。

 

短歌を続けていくこと

牛:最後にちょっと愚痴を聞いてください。『現代短歌のニューウェーブとは何か?』の中で、石川美南さんが「一方で、二〇〇〇年代頃の表現や「場」の問題が一旦リセットされてしまったという反省は、自分の問題として持ち続けている。」(「歌葉、短歌ヴァーサス、そのおわり」)と書いています。

愚痴というのはこの文に通じることです。僕が短歌をはじめた頃には、「短歌ヴァーサス」がすでに終刊していました。「短歌ヴァーサス」を読むと、魅力的な取り組みやイベントがたくさん紹介されているのに、2010年頃に周囲を見回すと何も無い。少なくとも「題詠マラソン」の流れを汲んだ「題詠blog」(Webの題詠企画。現在(「題詠100首」)の主催は五十嵐きよみ。2003年~)以外は見つけられませんでした。

2000年代の歌人たちは、「短歌ヴァーサス」周辺の文化の楽しさを享受しておきながら、その後にその文化を引き継いだものを残してくれなかった、というちょっとした恨みがありました。だから、何の経験値も無い状態で、自分たちで新しい「場」を作るしかない面があったと思います。

荻原:牛さんが言うことの意味はめちゃめちゃよく分かりますね。

私は今、名古屋で「東桜歌会」という岡井隆さんから引き継いだ歌会をやっています。「来たい」と言ってくれる人もいますが、完全には開放していません。なぜかというと、「場」そのものの雰囲気やクオリティの問題です。個人でできるのはその範囲であって、「短歌ヴァーサス」の頃はたまたまそれを少し拡張した、という感じです。「ラエティティア」などの場も、同じように手作りです。だから、ノウハウは無いんですよね。

完全なオープンではハラスメントの問題が起こりがちで、私が全責任を取るには閉じた場でするしかないと感じています。より良い大きなシステムを考えるのも必要だけれど、どちらかいえば、私はクローズドの場を薦めたいですね。ただ、牛さんのように短歌をはじめた人が疎外感を覚える状況を作っちゃいかんと思います。それはもう個々の人間的な裁量でカバーするしかないような気がします。

牛:大阪の地域性もありますが、僕は師匠格や先輩格の歌人と濃い付き合いをしてこなかったので、批判らしい批判を受けることがほとんどありませんでした。それをコンプレックスに感じることがあります。自由にやってきたけれども、それは自分の居心地の良い場所で楽しんできただけなのではという不安感です。

荻原:いやいや、一番大事なのは自分の居心地の良い場所で楽しくやることですよ。いつもビギナーに近い人たちには、短歌は長く続けることが必要で、そのためにはハードルを下げることと、自分を誉めてあげることが重要です、とよく言います。

フリーでの活動なのに不安を感じるというのは、牛さんはきっと活動し足りないんですよ。あるイベントへの参加でテンションが上がって数日間、虚脱状態になるような、そういう経験が足りていないんじゃないでしょうか。たとえば、「大阪短歌チョップ」(短歌イベント。主催は大阪短歌チョップ実行委員会。2014・2016年)のような大変なイベントは、完全燃焼しないとできないですよね。あのイベントの後は感じなかったんじゃないですか。

そうした経験は減らない貯金のようなもので、積み重ねると自分の自信や充実感になります。私は1980年代後半の経験だけでも、一生やっていけるぐらいの貯金は得られましたよ。もちろん、その後もずっと続けていますし。他人がいくら評価してくれても、それだけで「足りた」と思えることはほとんどない。でも、イベントとか、歌会とか、そうした経験のひとつひとつが自分の内側に貯まる感覚があって、自分を支えるのはその蓄積しかない。そうじゃないと創作をしながら企画をするのは、難しいんじゃないでしょうかね。

牛:今の言葉は短歌の企画をする人への励ましの言葉になりますね。企画者には不毛感や徒労感がよぎることがあると思うんですね。一時的な評価やメリットを受けることがあっても、多くの場合は労力に見合うものではないですから。さらに言えば、短歌を作ること自体にも通じるなと思います。

荻原:実績とはそういうものですよ。たとえば、歌集を出したとして、他人からどう評価されてもモチベーションは上がっていかない。ましてや即日に評価される作品も、評価に10年かかる作品もあります。目に見えないものが元気にやっていける活力源になるんじゃないでしょうか。だからこそ「ああ、今日は楽しかったな」という日を積み重ねることが大切で、それは創作でも企画でも同じじゃないでしょうか。

牛:「大阪短歌チョップ」にまで触れていただきました。たしかにあのイベントの後は1か月間くらい虚脱状態で、それだけの充実感がありました。大勢が関わって、色んな思惑が合わさったイベントですが、僕の個人的なテーマとしては「短歌ヴァーサス第12号・第13号」でした。荻原さんはじめ「短歌ヴァーサス」で活躍した歌人に多く出演してもらいましたし、各企画には「短歌ヴァーサス」の特集テーマへの2010年代のアンサーとして組んだものもありました。

荻原:ありがとうございます。私も楽しかったですよ。

 

おわりに

「短歌ヴァーサス」は品切れの号も多く入手困難ですが、国立国会図書館岩手県北上市の日本現代詩歌文学館には全号が揃っています。

最終回らしく、拡大版のインタビューになりました。もっと正直に言えば、今連載にかこつけて、自分自身が最も思い入れのある「短歌ヴァーサス」を作った荻原裕幸さんと話したかっただけのような気もします。今、短歌を始めようとしている人には、本文にあるように自分が楽しく続けられる場(企画)を、ぜひ見つけてほしいです。そして、そのためにも、この先もバラエティに富む様々な企画が生まれることを願います。今後は不定期連載となります。ありがとうございました。

 

インタビューされた人

荻原裕幸(おぎはらひろゆき)

プロフィール:歌人。東桜歌会主宰。同人誌「短歌ホリック」発行人。『岩波現代短歌辞典』編集委員、オンデマンド歌集出版企画「歌葉」プロデュース、総合誌「短歌ヴァーサス」責任編集、等、フリーランスでの活動を続けている。
第30回短歌研究新人賞受賞。名古屋市芸術賞奨励賞受賞。第11回中日短歌大賞受賞。歌集『青年霊歌』『あるまじろん』『リリカル・アンドロイド』他。

Twitter @ogiharahiroyuki

自選短歌

優先順位がたがひに二番であるやうな間柄にて梅を見にゆく

 

インタビューした人

牛隆佑

1981年生まれ。フクロウ会議メンバー。

これまでの活動はこちら

Twitter:@ushiryu31
blog:消燈グレゴリー その三

自選短歌

朝焼けは夜明けを殺しながら来る魚を食らう魚のように

 

記事で紹介した短歌企画

荻原裕幸さんの短歌企画
  • 短歌ヴァーサス: 風媒社発行の短歌季刊誌。責任編集は荻原裕幸。2003~2007年
  • ラエティティア:短詩文芸グループのメーリングリスト。運営は荻原裕幸。1998年~
  • 短歌ホリック:短歌同人誌。発行人は荻原裕幸。2016年~

 

記事内で言及した短歌に関わる企画
  • マラソンリーディング:短歌朗読イベント。運営は田中槐等。2001年~2015年
  • うたの日:毎日歌会が実施される短歌投稿サイト。管理人はのの。2014年~
  • 文学フリマ:文学特化の同人誌即売会。主催は文学フリマ事務局。2002年~
  • 題詠blog:Webの題詠企画。現在(「題詠100首」)の主催は五十嵐きよみ。2003年~
  • 大阪短歌チョップ:短歌イベント。主催は大阪短歌チョップ実行委員会。2014・2016年

 

参考文献

『ねむらない樹別冊 現代短歌のニューウェーブとは何か?』(書肆侃侃房)

 

「短歌の企画者に話を聞いてみた」バックナンバー

第1回 「あみもの」御殿山みなみさん

第2回 「うたつかい」嶋田さくらこさん

第3回 「歌会たかまがはら」天野うずめさん

第4回 「最適日常」月岡烏情さん

第5回 「CDTNK(カウントダウンタンカ)」泳二さん

第6回 「うたそら」千原こはぎさん

第7回 「まいつき短歌祭」武田ひかさん

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