「おすすめの短歌の本を教えて」と言われたらどう答えますか?
相手の好みを聞いたうえで答えることもあるでしょうし、「好きだけど絶版だからこの歌集はやめておこう」「好きだけど個人通販でしか買えないから大きな書店で買える本をすすめよう」「有名すぎて知っているだろうからこの本はやめておこう」と思うこともあるかもしれません。
この企画はそういった条件は全く気にせず、とにかく「本ッ当に好きな 短歌の本」についての思いを書いてもらうリレーエッセイ企画です。
第13回は西村曜さんです。
<ひきこもる俺とはたらく父の頬しろく二十四くろく五十四>(毎日歌壇 加藤治郎・選 2015年11月10日)という短歌が、わたしのはじめて新聞歌壇に載せてもらった歌だ。
この歌を詠んだときのわたしはほんとうに24歳で、美大を卒業したものの就職活動に失敗し、実家にひきこもっていた。精神的にも危うく、通院していた病院の医師から「図書館に通うなりして毎日行くところをつくるといいでしょう」とアドバイスを受けた。そして通うようになった図書館で、たまたま短歌の本を手に取り、2015年の6月からじぶんでも短歌を作ってみるようになった。将来が寸分も見えない日々のなかで、短歌を読んだり詠んだりしてひきこもるじぶんの存在を確かめたかったのかもしれない。
じっさいわたしは短歌をはじめてからTwitter(現X) に短歌アカウントを作ってひとと交流するようになり、しばらくしてから歌会に出られるまでになった。あいかわらず無職ではあったけれど。「ひきこもる俺」「働いていない俺」(そのころのわたしは短歌の一人称に「俺」を使っていた)の鬱屈と、かすかに兆した希望を詠みたかった。
だから2016年6月に刊行された『羽虫群』虫武一俊(書肆侃侃房)を読んだときは驚愕した。ほとんど絶望したと言ってもいいかもしれない。「俺」が短歌に詠みたいことを、この歌集はほぼすべてすでに詠んでしまっている……!
ジャム売りや飴売りが来てひきこもる家にもそれなりの春っぽさ/虫武一俊『羽虫群』
『羽虫群』のこのひとも、どうやらまだ職をもたずひきこもっている。「飴売り」はまだ居そうだけれど「ジャム売り」という職業(?)はほんとうにあるのだろうか。異質な存在のなかにひきこもるこのひとも混ざり、「ジャム」「飴」の甘さも手伝ってどこか祝祭めいた春の歌になっている。
ふゆかげのちからよわさよ持久走最下位という事実のなかの/虫武一俊『羽虫群』
「負けたくはないやろ」と言うひとばかりいて負けたさをうまく言えない/虫武一俊『羽虫群』
初読のときは「持久走最下位」におぼえがあり過ぎて読めなかったが、この歌のポイントは「ふゆかげ」だとおもう。ひらがなで書かれた「ふゆかげ」はいかにも「ちからよわ」く、それが「持久走最下位」のふがいなさとダブる。「負けたさ」の歌も「負けたくはないやろ」の関西弁が効いている。
三十歳職歴なしと告げたとき面接官のはるかな吐息/虫武一俊『羽虫群』
こちらの歌も「三十歳職歴なし」に目を奪われて当時は読めていなかったけれど、この歌の核となっているのは「はるかな吐息」の「はるかな」だ。その「はるかな」は面接官との、そして社会との隔たりの深さだ。
『羽虫群』の歌はどれもひきこもる「俺」には身におぼえがあることを、しかし「俺」にはなかった視座でもってつぎつぎに見せてくれた。読み返すたびにとても焦った。たんじゅんにひきこもることを、そのつらさやあてどのなさを詠んでいたのではだめなんだ……。『羽虫群』にはひきこもるつらさをたんにそれだけには留め置かないユーモアと、根底にはこの世界への肯定があり、それらがだんだん自己へのほんのわずかな肯定感にもつながっていく。
しんりん、と木々をまとめてゆくような冷たさにいくたびも頰は/虫武一俊『羽虫群』
この歌集でいちばんすきな歌だ。わたしがいままでひとにはあまり「『羽虫群』がすきです」と言ってこなかったのは、『羽虫群』にもはや嫉妬と言っていいほどの感情を抱いているからかもしれないけれど、ひきこもる/ひきこもっていたじぶんと『羽虫群』があまりにも「つきすぎ」(関連性が近すぎること)だからかもしれない。でもこの企画は「本ッ当に好きな短歌の本 教えてください」というものだから、そんなことを気にせずに言える。わたしは『羽虫群』が大好きで、かなり嫉妬しつつ、おそらく影響も受けている。
この歌集を読むと、『羽虫群』の「おれ」は歌われきったのだな、だからわたしはわたしの「俺」を、ひいては「わたし」を詠まないとな、とおもう。「ひきこもり」「生きづらさ系」とまとめられてしまうかもしれない歌や歌集も、じつはぜんぜん別個のものなのだ。その痛みをまとめていく「冷たさ」に抗っていきたいと、この「しんりん」の歌をおもうたびに決意する。その「冷たさ」はなにも社会や他者だけが持つものではなく、わたし自身のなかにもあるものだ。それを自覚しておきたい。
わたしは『羽虫群』の初読時「先を越された!」とおもってしまったけれど、わたしにはわたしの短歌と痛みがあるのだ。そのことはまごうことなく希望だ。
対岸に林檎は赤く流れ着きそろそろはじまってもいいだろう?/虫武一俊『羽虫群』
この文章を書いた人
西村曜(にしむら・あきら)
1990年滋賀県生まれ、現在関東在住。未来短歌会所属。水たまりとシトロン、水面、絶島同人。第一歌集『コンビニに生まれかわってしまっても』(書肆侃侃房)。ムーミンとミッフィーさんとしろくまの雑貨を集めるなどする。
Twitter:@nsmrakira
自選短歌
コンビニに生まれかわってしまってもクセ毛で俺と気づいてほしい
今回紹介した短歌の本