「おすすめの短歌の本を教えて」と言われたらどう答えますか?
相手の好みを聞いたうえで答えることもあるでしょうし、「好きだけど絶版だからこの歌集はやめておこう」「好きだけど個人通販でしか買えないから大きな書店で買える本をすすめよう」「有名すぎて知っているだろうからこの本はやめておこう」と思うこともあるかもしれません。
この企画はそういった条件は全く気にせず、とにかく「本ッ当に好きな 短歌の本」についての思いを書いてもらうリレーエッセイ企画です。
第24回は小坂井大輔さんです。
短歌を始めたきっかけは、戸田響子との出会いだった。
とくべつ劇的な出会いじゃなかったけれど、いま振り返ると、あれはあれで運命だったような気がしている。
私はパチンコ生活からの脱却を試みて、2012年から「名古屋de朝活読書会」という会を主催していた。そこに参加してくれたのが戸田さんだった。
ある会のとき、彼女が雑誌『ダ・ヴィンチ』を開いてこう言った。
「見て見て、載ってるんですよー」
そうやって見せてくれたのは、「短歌ください」という穂村弘さんが選者の読者投稿コーナーのページだった。
そこに並んでいた短歌は、どれも思っていたよりずっと自分に近かった。
難しい言葉があるわけでもない。技巧をこれ見よがしに誇るようなものでもない。
でも、心の奥底に鋭く届いてくる。
「短歌って、こんなふうにしていいんだ」
それが最初の驚きだった。
あのページとの出会いがなければ、今も短歌を書いていなかったと思う。
だから戸田響子は、私にとって「短歌のはじまり」をくれた人だ。
彼女が歌集を出すことになったとき、私も出版社との打ち合わせに同席していた。
「タイトル、どうしましょうか」という話の流れで、彼女はぼそっと口にした。
「煮汁で、いきたいです」
一瞬、冗談かと思った。マジか、と思ったあと、もう一度すぐに、マジか、と思った。
思わず、目が見開いたままになってしまった。
でも、その言葉の背景にある真剣さと温度はすぐに伝わってきた。
驚きのあとに、妙な納得がやってくる。
ああ、そうか。戸田さんの書く短歌には、煮汁が似合うんだ、と。
派手ではない。でも、生活の奥にずっとある。
透明ではないけれど、にごっているとも違う。
何かが煮詰まったあとの、じんわりと残る匂いと色。
たとえば、こんな一首がある。
歯ブラシをくわえて乗った体重計重いものだな歯ブラシって>/戸田響子『煮汁』(書肆侃侃房)
これは、ただのユーモアではない。
ちいさな笑いのようなものが、どこかにひっかかる。
洗面台の鏡のなか、自分の顔の輪郭と、数字だけが確かにそこにある朝。
誰に言うでもなく、ただそうだった、という事実を言葉にしているだけ。
でも、その静けさがずっと残る。
レーズンパンのレーズンすべてほじりだしおまえをただのパンにしてやる/戸田響子『煮汁』
レーズンパンを「ただのパンにしてやる」という語感の面白さに笑ってしまいそうになるけれど、
その奥にあるのは、小さな怒りや、うまく言語化できない苛立ち、あるいは自分へのいらだちかもしれない。
感情を直線的にぶつけるのではなく、少し遠まわしに、パンという媒介を通して表現されている。
でもだからこそ、その感情は濃く滲む。
珠のれんがバラバラになる予感だけずっとしている子供のころから
クレーンがあんなに高いとこにある罰せられる日が来るのでしょうか/戸田響子『煮汁』
怒られた記憶よりも、怒られそうな気がしていた時間のほうが長く残っている。
「罰せられる日が来る」とは、なんて言葉だろうと思う。
自分でもはっきりとは説明できない感情を、そのまま言葉にしてもらったような心地がした。
桜から桜の間は夢なので一年は早く過ぎていきます/戸田響子『煮汁』
春になると、この歌をいつも思い出すようになった。
読書会で戸田さんと出会ってから、短歌と出会ってから、10年以上が経って、そのあいだに、雑誌や新聞に、自分の歌が載るようになった。歌集も二冊刊行した。たくさんの歌人にも出会えた。自分が働いている平和園という中華料理店は、短歌の聖地と呼ばれるようになってしまっている。
そんなことって、ある?
一年一年は、夢のように過ぎていく。
おそらく、これから先の人生も。
『煮汁』は、いつまでも私にとっての現在地を思い出させてくれる一冊だ。
この文章を書いた人
今回紹介した短歌の本