気持ちを言葉にできないのなら、全部短歌にしてしまえ。

エッセイ

言葉を知れば知るほど、その無力さに途方に暮れることがある。

さみしいと言っても、さみしくないと言っても嘘になる。

死にたいと言っても、生きたいと言っても嘘になる。

この世界が好きだと言っても、憎いと言っても嘘になる。

心臓の温度を、正確に言い表す言葉が見つからない。

たとえば夜の寝室。

人の声や車の走行音の蔓延する騒がしい街から抜け出し、家のドアを開ける。疲れた身体を、ボウリングの球を投げるみたいにベッドへと放り込む。耳にかすかに残留していた喧騒音はだんだんと遠のき、代わりに冷蔵庫の低い唸りや、時計の針の音が聞こえてくる。それらが僕が孤独であることを自覚させる。幸せだ。夜も深まったひとりきりの寝室に、僕の存在を妨げるものは何もない。幼い頃から家に居場所のなかった僕にとって、孤独こそ僕を否定しない、最高の友人だった。

だけどどうしてか、一向に眠ることができない。大好きなはずの孤独と戯れていると、だしぬけにキュッと心臓を何かに啄まれる瞬間がある。

あれ、もしかしてさみしいのかな。

重くなった身体こそベッドが受け止めてくれるも、一方で、確固たる生きる理由や将来への展望もなかった僕の精神は、何に委ねられることもなく、宙ぶらりんのままだった。

不安定なこの精神を、なんだか受け止めてほしい気がした。それはさみしいってことなのかもしれない。だけど、孤独に包まれるこの安心感は確かで、誰かに一緒に寝てほしいとか、そういうことでもなく。

さみしい。いや、さみしくなんてない。

相反する二つの感情が複雑に混ざり合ったこの心境を正確に言い表す言葉を、当時の僕は持ち合わせていなかった。

目指す岸辺を持たずに海へと漕ぎ出して、結果遭難する感情たちから目を背けるように、シーツの皺を数えて、ぐちゃぐちゃにして、また数え直して、そんなことを繰り返すうちに朝にたどり着いた。

この感情たちが、言葉にされないままいつか風化してしまうのを恐れていた。

僕の中に確かに存在するこの感情を、僕は言葉にして、叫びたかった。

握りしめたナイフをどこに突き刺していいのかもわからぬまま、風に晒された切っ先が錆び付いていくのを、ただ黙って見ている様な日々だった。

そんなある日、僕は短歌と出会った。

僕の短歌との出会いは、歌人でもあるギターボーカルのハルカと、キーボードコーラスのミユキによる二人組ロックバンド、ハルカトミユキの1st e.p. 「虚言者が夜明けを告げる。僕たちが、いつまでも黙っていると思うな。」だった。

博多のタワーレコード、立ち並ぶ陳列棚の一角、何気無く手にとった1枚のCD、ジャケットには2人の女性、一人はどこか深刻そうな表情で俯き、一人は天井から降り注ぐ水を両手で受け止めようとするも、それらは無情にも飛び散っていた。そして帯には

虚言者が夜明けを告げる。僕たちが、いつまでも黙っていると思うな。

最初に見たときは「やたら長いタイトルだな」と思った。しかし、それが短歌であると気づいたとき、この言葉たちが表情を変えた。言葉たちが、ふつふつと音を立てて沸騰し始めた。同じ日本語でありながら、僕らの生きる社会に流通しているそれとは何かが違う。だって、どう考えたって、歪だ。言葉が57577の31音に収納されているだなんて。そんな縛りなんて取っ払ってしまった方が、もっと自由に、もっと正確に、思いのままに感情を表明できるに決まってる。

だけどどうしてか、この短歌に僕の心はがっちりと掴まれてしまった。

そこに記されている言葉以上の何かを、僕は感じたのだ。

怒り、希望、強さ、弱さ。

触れれば火傷しそうなほど熱く、だけど凍ってしまいそうなほど冷たい、うっとりしてしまうほど美しく、だけど目を背けたくなるほどぐちゃぐちゃとして汚い、そんな言葉にできない感情たちが、そのうねりが、この31音に閉じ込められている気がした。無理やり檻に閉じ込められた獣たちが、檻を破ってこちら側に飛びかかる瞬間を今か今かと待ち構えているみたいに、31音の檻に閉じ込められた感情たちが、檻の中からこちら側を睨みつけているようだった。

それがつまり、31音の威力だ。

31音とは、余白を生むための制約だ。

言葉にできない感情を、そのまま閉じ込めるための余白。

たとえば僕は今、短歌との出会いについてこの文章に書いている。当時感じたことを丁寧に拾い集め、ひとつも零さないように、慎重に言葉にしている。

でも、だからこそ、これを読んでくれている人に、ここに書かれている以上のことを読み取ってもらうのは難しい。

短歌は、言い表したいその全てが言葉にされていないことを、詠み手も、読み手も、互いに了承している。31音が生み出すその余白。詠み手はそこに言葉にできない思いを閉じ込めることができるし、読み手はそこに言葉にされなかった思いを探すことができる。

かろうじて言葉にされた31音は、その奥に無限に広がる感情の世界と、この現実世界とを橋渡しする役割を果たす。

短歌とは、手に負えない感情が唯一持つことのできる、世界との接点なのだ。

短歌との衝撃的な出会いから月日は流れ、僕は大学の帰り道、駅のホームをウロウロとしていた。当時の僕は、自分が生まれてきた意味も、今生きている意味もわからず、それでも規則正しく律儀に訪れる毎日を、ただぼんやりと見送っていた。いつ死んでもいいと、そう思っていた。なんだか、ぼーっとしていた。カンカンカン、、、電車がホームに間も無く到着するのを知らせるベルが鳴る。飛び込んでしまおうかな。僕の足は、自然と黄色い線の外側へと向かっていた。体がふらふらと揺れる。線路から目が離せなくなる。そのまま吸い込まれる様に、体が前方に傾いていく。

その時だった。電車は、ものすごい轟音とともに、僕が立っていたのとは反対側の線路に流れて込んできた。

なんだか拍子抜けして、笑ってしまった。電車が反対のホームに来ることを、知っていた気がしたのだ。なんだよ、いつ死んでもいいんじゃなかったのかよ。

そして僕は、自分の感情がわからなくなった。死んでもいいのか、やっぱり死ぬのは怖いのか。今自分の心を支配しているのは、死にぞこなった虚無感なのか、生きながらえた安心感なのか。きっとそのどちらの感情も確かに存在していて、それらがぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。

赤と青の絵の具を適当な分量で混ぜた色に僕らが呼び名を持たないように、僕はこの混沌とした感情を、言葉でどう表現していいかわからなかった。

死にたいと言っても、生きたいと言っても嘘になる。

言葉にされることもなく、ただ僕の中で右往左往とするばかりのこの感情を、例のごとく持て余し始めたその時、僕の頭の中に31音の言葉が流れ込んできた。

飛び込もうと思うも電車は反対のホームに来るし、多分知ってたし。

短歌だった。初めての。それも、なんの感情も詠み込まれていない、さっき起こったことをただありのままに描写しただけの。

だけど、それで十分だと思った。この31音に、死にたいと生きたいがぐちゃぐちゃに混ざり合った感情が、熱を失うことなく閉じ込められていた。そしてなんだか、救われてしまった。自分の感情に、居場所を与えてあげられた気がしたのだ。

それから数年が経った今でも、この短歌を読めば、僕はあの日のことを思い出すことができる。確かに僕の中にあった感情を、そのままの温度で思い出すことができる。

この短歌があるかぎり、僕にとってのあの日は、あの日感じたことは、決して嘘にならない。

気持ちを言葉にできないのなら、全部短歌にしてしまえ。

この記事を書いた人

大庭 有旗

93年生まれ。文章を書いたり、短歌を詠んだり、お酒を飲んだりします。お金がない。

note: https://note.mu/gustrongerr
twitter @gustrongerr

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