「おすすめの短歌の本を教えて」と言われたらどう答えますか?
相手の好みを聞いたうえで答えることもあるでしょうし、「好きだけど絶版だからこの歌集はやめておこう」「好きだけど個人通販でしか買えないから大きな書店で買える本をすすめよう」「有名すぎて知っているだろうからこの本はやめておこう」と思うこともあるかもしれません。
この企画はそういった条件は全く気にせず、とにかく「本ッ当に好きな 短歌の本」についての思いを書いてもらうリレーエッセイ企画です。
第16回は鈴木ジェロニモさんです。
からだで野球をしていた。小学校3年生の夏のからだでやり始めて、高校3年生の夏のからだでやり終えた。周囲と比べて相対的にからだが大きかったときは野球が上手かった。だんだんそうでもなくなってきて、野球は上手くなくなった。野球はからだのスポーツだ。
野球中継をからだで見ていると実況のアナウンサーが「打った瞬間ホームランと分かる打球」と言う。しかし実際には違う。野球をしていた当時のからだの僕が言う。いい打球は全て、からだで打つ直前に、こころで、いい打球になる、と分かるのだ。
直前というのはほんとうに直前で、バットとボールが接触する、そのほんの一瞬前。バットが引き連れてきた風とボールが引き連れてきた風どうしはぶつかり始めている、その瞬間。あっ打った、とこころで分かる。この感覚は野球に限らない。
僕のからだはお笑い芸人をしていて、舞台でネタを披露したりトークをしたりする。からだが台詞を噛んでしまうとき、からだが噛むほんの一瞬前に、あっ噛んだ、とこころで分かる。お客様が笑ってくださるとき、からだが笑い声を聞くほんの一瞬前に、あっ笑った、とこころで分かる。
からだが経験するあらゆる出来事は、こころが予想したことの瞬間的なリプレイだと思う。こころが先に始まって、からだが遅れてやってくる。
堤防を上りつめたらでかい川が予言のように広がっていた/鈴木ちはね『予言』
「でかい川」をからだの視覚が捉えたときに訪れる感動は、それを実際に目にするほんの一瞬前からこころで始まっている。ああ、とその後何度も思い出すことになる出来事はそれが始まる直前から、来るよ、と予めこころに聞こえている。予言とは、からだがこころに遅れることだ。
新幹線の田んぼの中の看板は実際行けば大きいだろう/鈴木ちはね『予言』
「実際行けば大きいだろう」とこころで予想される田んぼの中の看板を、新幹線の窓越しに、からだの目が捉える。新幹線の窓から見える景色、その中の田んぼは、新幹線の窓という額縁に収まった「新幹線の田んぼ」である。そういうこころの認識は、こころにおいてただしい。
車椅子をばこんと開く そういえばこんな気持ちがあったと思う
ペッパー君が聴き取りやすいように話す そういうときの優しさがある
/鈴木ちはね『予言』
感情は、こころは、からだの目に見えない。からだが行動することによって、こころにあった感情に、からだが遅れて気がつくことがある。眠っているこころをからだが起こす。見えないこころの存在を、見えるからだが肯定する。
からだの目はからだの前を見る。からだの目で、景色よりも後ろにあるからだの鼻を直接見ることはできない。からだの目で直接見られるものだけをただしいとするならば、からだの鼻は、ない。しかしからだの鼻はある。「ない」けれど「ある」ものが、ある。
地下鉄の駅を上がってすぐにあるマクドナルドの日の当たる席
水洗いされたばかりの灰皿に水が残っていてそれで消す
スイミングスクール通わされていた夏の道路の明るさのこと
/鈴木ちはね『予言』
こころが覚える光景や体験は、それを実際にからだが経験するまでは、からだの自分にとって「ない」。しかしそれらが存在することを、こころの自分が知っている。
「ない」けれど「ある」ものを、教えてくれる。その声が『予言』だと思う。
この文章を書いた人
鈴木ジェロニモ
自選短歌
冷蔵庫の6Pチーズ傾けて2P残っているときの音
今回紹介した短歌の本