「おすすめの短歌の本を教えて」と言われたらどう答えますか?
相手の好みを聞いたうえで答えることもあるでしょうし、「好きだけど絶版だからこの歌集はやめておこう」「好きだけど個人通販でしか買えないから大きな書店で買える本をすすめよう」「有名すぎて知っているだろうからこの本はやめておこう」と思うこともあるかもしれません。
この企画はそういった条件は全く気にせず、とにかく「本ッ当に好きな 短歌の本」についての思いを書いてもらうリレーエッセイ企画です。
第20回は吉田衣織奈さんです。
もうじき三十路になる。
別に穏やかでなくてもいいけれど、できれば自分に豊かな時間でいたい。
暦通りの会社員として毎日同じタイムスケジュールで過ごしていると日々はどんどん短くなる。もう12時、もう18時、もう23時、そしてもう朝の7時。
少年の日の野球帽しらしらと塩うかびたる串のししたう/山下翔『温泉』
アルミボディのPCで文字を打っていると触れている部分がだんだんと汗をかいて薄い結露が出来ていく。このまま冷えれば塩の結晶ができたりするのだろうか。
山下翔『温泉』。これがわたしにとってほとんどはじめての文語旧かなの本だった。
※正確には文語口語ミックス体?とかそういう区分かもしれないけど“主に文語で旧かなも使われている“という意味で「文語旧かな」と記載します。
授業程度の知識で何となくの意味は分かるが細かいニュアンスは掴めない。正直文法も危ういから現代語訳が合っているかも分からない。読むのに時間がかかるし、何といっても喋り言葉に比べて感情が入っていかない。
滝のように出る新刊歌集に押し流されているとどうしても優先度が下がってしまって、短歌を始めて四年目の春になっても旧かなの本は一冊も持っていなかった。
夏。歌人の集うバーベキューに誘われ、先に駅にいたのが山下さんだった。
散々飲み、食い、そのあと居酒屋でも飲み、食い、そういえば今日来ていた山下さんという方はなんだかすごい人なんだそうで、なんだか有名な歌集もあるらしい。
こんな失礼な出会いがあるかという感じだが当時はバーベキューに来たただのお腹空いた人だったのでちょっと許してほしい。
山下さんの短歌は時間が遅い。ボールがゆっくり飛んで見えるような体感がある。
自分は野球をやったことがないのだけど、テレビ中継の野球選手や草野球チームの子供はみんな絵みたいに汗だくである。そういえば中学のとき野球部の帽子にも塩の跡ができていた。
それがしらしら、しらしらとつばの根元から先に向けて白波のように進んでいる。その(物理的な)奥行きや時間経過がありながらそのまま串焼きのシシトウへ場面が移る。
シシトウもじわっと汗をかいていて、真ん中のあたりはすこし焼きしぼんでくびれているかな。遠い少年時代から今ここにあるシシトウまでの時間がゆっくりと途切れなく伸びている。
出始めの水のつめたさこの秋のはじめ、とかるく記憶しておく
だからこそ秋は夕暮れぶだう棚のしろき袋も満たされてゐる/山下翔『温泉』
最近は極端な夏と極端な冬が順にスイッチするばかりで、もう秋という季節は幻になっている。
水道の水が冷たく感じられてああ、もう秋だと思う。季節は気温ではなく個々の体感で切り替わる。ぶどうのない星では、吊り下げられた無数の白い紙袋からぷつっと汁の弾けるうれしさを思うことはできないだろう。季節は気温ではなく個々の体感で切り替わる。
この歌集はそれをよく知っている。
ざく切りのキャベツちり敷く受け皿にまづバラが来てズリ、皮、つくね来
キープボトルの焼酎を得て秋の夜の長きを飲んで飲みつぐつもり
酒で充たし肴で充たしもう誰も入つて来るなわがふところに/山下翔『温泉』
山下さんといえば飲み食いの歌だ。とくに『温泉』には甘そうなキャベツが多く出てくる。
焼き鳥屋さんに行くとお通しとして角切りキャベツにポン酢のかかったのが出てくるのは福岡特有の文化だそうですね。そのキャベツを油切りに、焼きあがった串を順々にカウンターから乗せてもらう。
まず来るのは火の通りの早い豚バラ。福岡では焼き鳥といえば豚バラです。
その次にズリがきて、豚バラの最後の一切れを串から嚙み抜いているころに鶏皮、つくねと来る。ボトルの焼酎は継ぎ足し継ぎ足し、度合いの変わる水割りを終わりなく飲んでいる。
次々来る串のように、次々注ぐ酒のように、人は次々と他人の死と向き合う。秋の夜はそれを一瞬でもせき止めてくれるような、あるいは重く実感させるような長さがある。
くしやみすれば昨夜の酒のいろいろのにほひまじりて年ゆかむとす
まぶたおろせば少年の日は思ひ出づぢつとしてただ髪切られゐき
はつなつのものみな影をおとしゐる真昼もつともわが影が濃し
陰口を言はるるゆめの多くあり朝ごと食ぶるヨーグルトうまし/山下翔『温泉』
文語旧かなの「対素人への効果」にも触れたい。わたしは文語旧かなについては全くの不勉強で、かつ大いに不慣れである。お恥ずかしいこと極まりないが、だからこそ感覚的に字面や音のイメージとして文語旧かなが作用することがある。
“くしやみ”はくしゃみよりも助走が長くて音がデカそうだし、“ぢつと”はじっとしているより身体に力が入っていそう。“濃し”“うまし”にある開放感や潔さは“濃い”“うまい”には絶対に出せない。普段使わない文字から得られるイメージや緊張感は旧かなに不慣れな今しか感じ取れないのだと思う。だからこそ苦手意識がありながらも惹かれたのだし、今は不慣れな文体故に無意識に上乗せしてしまう「上手そう感」を見極めなきゃならないとも思っている。
山下さんの詠む文語旧かなに違和感を感じない理由のひとつに、この語り口に山下さん自身の速度が合っているからというのがあると思う。なんというか、テンパってる姿とかをあんまり想像できないところに妙な納得感がある。
別に穏やかでなくてもいいけれど、できれば自分に豊かな時間でいたい。
それは自分とその出力との速度が合うことを指すのかもしれない。
ちなみにこの本を読んでいた頃、新人賞に出す作品のひとつを書き上げている真っ只中で「これを越えなきゃ一等にはなれないんだ」と思って絶望した。山下さんがいる限り短歌やる意味ないと思った。
わたしの『温泉』には後日山下さんにサインの代わりに書いてもらった「絶望」という字がデカデカと光っている。
この文章を書いた人
吉田衣織奈
2020年1月頃から福岡とインターネットの二拠点で短歌をしています。結社無所属。
泣くまでフィナンシェを食べてみたい。
X(Twitter):@___anoi___
自選短歌
好きな本を教えてくれる熱のときおでこを触ってくれるみたいに
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