教科書に載っている歌人の作品を読んでみよう~若山牧水『海の声』編

コラム

みなさんこんにちは。TANKANESSライターの貝澤駿一です。前回の石川啄木の記事から3か月以上がたち、季節をひとつすっとばしてしまいました。

教科書に載っている歌人の作品を読んでみよう」シリーズ、2回目となる今回は、若山牧水(1885-1928)を取り上げたいと思います。

牧水は死後百年近くがたった今でも非常に人気のある歌人で、海や山といった自然を歌った作品、若いころの大恋愛を歌った作品、そして生涯の友であった酒と旅を歌った作品などが、世代を超えて広く愛唱されています。

しかし、牧水はそうした「自然」「恋」「酒」「旅」といったイメージで語られることが多く、その実像はあまりよく知られていないと思います。かくいうぼく自身も、この記事の執筆のために牧水関連の書籍や歌集を何冊か読んでいくうちに、これまで自分が知っていた牧水という歌人はあまりにも表層の部分に過ぎなかったのだということに気がつきました。

 

知れば知るほど奥深い牧水の世界、この記事では「教科書で」しか牧水を知らないという人や、「教科書で」牧水を知ったという人にも、その魅力が少しでも伝わればいいなと思っています。では、さっそく牧水の生涯から始めていきましょう。

 

牧水ってどんな人?-自然を愛し、酒を愛した放浪の人

幸せな幼年時代、そして青春へ

人生で初めて出会う牧水の短歌、いろいろあるとは思いますが、やはりこの歌を一番にあげる人が多いのではないでしょうか。

 

白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 

第一歌集『海の声』の冒頭近くで燦然と輝いているこの歌は、明治四十年(1907)の十二月、牧水23歳のころの作品です。

のちに悲劇的な結末を迎える恋人・園田小枝子との大恋愛が進行中で、青春の中にある孤独や悲哀を高らかに歌い上げた名作と言えるでしょう。

ここでいう「白鳥(しらとり)」とはおそらくカモメのことをさしますが、実はこの歌の細かい解釈は鑑賞者によって分かれています。

中学生のころのぼくは、この歌の「白鳥」は空を飛んでいて、頭上にある空の青と眼下にある海の青の、どちらにも染まらずにただよっていると解釈していましたし、そう教わった記憶もあります。

しかし、「ただよふ」という結句からカモメが海にぷかぷかと浮かんでいるという情景を想像することもできます。むしろそのほうが、青春という長いモラトリアムに投げ出され、その中でひとりの女性を必死に愛そうとしている(しかも後年の読者はその恋が決して実らないものであったことを知っている)青年の悲哀がより色濃く映し出されるのかもしれません。

 

若山牧水(1885-1928)は、本名を繁といい、宮崎県日向市の坪谷という小さな村に、父・立蔵と母・マキの息子として生まれ、幸福な少年時代を過ごしました。祖父・若山健海はもともと埼玉県所沢の生まれで西洋医学を学び、長崎を経て坪谷に定住、下手をすると医療過疎になってしまうような山奥の村で開業し、若山家の土台を築いた人物です。

若山家は村に欠かせない医者の家系でありましたが、その出自は村の外部にあることから、幼い牧水はどちらかというと「よそもの」であるという意識を強く持っていました。

そのため、活発な子どもではありましたが、村の友だちと一緒に遊ぶことよりも、山や川などの自然と戯れたり、祖父の蔵書をひとり読んだりすることを好んでいました。

 

母・マキの存在は、幼い牧水にとってとても大きなものでした。牧水は若山家の四番目の子供で待望の長男であり、いわゆる「末っ子長男姉三人」状態だったため、家族の、特に母の愛情を一身に受けて育ったのです。「牧水」というペンネームは、牧水がとくに愛した二つのもの、つまり自然の中の「水」と、マキの名前を組み合わせたものだといわれています。

 

明治二十九年(1896)、牧水は延岡市にある高等小学校へ入学します(現在でいうと中学一年生の年です)。明治三十二年(1899)には延岡中学(現在の延岡高校)に成績優秀で合格し、親元を離れて寄宿舎で生活するようになりました。

当時は中学生(現在の年齢では高校生)による文芸が盛んであり、同年代の石川啄木も盛岡中学で旺盛な文学活動をして、そのせいで成績が落ちて退学処分を食らっていましたね。牧水も延岡中学で作歌活動を始め、いくつかの作品が雑誌に掲載されるなどして、いまでも全集などに残っています。

延岡は海の町であり、山奥の村であった坪谷とは対照的でした。坪谷にいたころはあこがれでしかなかった「海」は、延岡にきて初めて身近に感じるようになったものです。「海」は生涯を通じて牧水短歌の主要なテーマとなっていきます。

 

明治三十七年(1903)、牧水は上京して早稲田大学に入学します。医者の息子であった牧水が、東京で文学の道を進むことになったのです。この年の6月、早稲田の教室で牧水は同級生の北原白秋と知り合います。

互いに雑誌などで名前を見知っていたことや、同じ九州出身(白秋の故郷・柳川は福岡県にあります)ということもあり、二人は急速に親しくなります。この出会いはのちに、牧水が故郷・坪谷を捨て、文学者として生きる決意をしたことと、深く結びついているように思います。

 

このように、幼年~青春時代の牧水は、同年代のほかの文学者と比べると恵まれた環境で育ち、順風満帆な人生を歩んでいました。しかし、そんな青春時代のおわりになって、牧水の身に降りかかってきたのが、ある女性との決して実ることはない大恋愛でした。そしてその恋の経験が、初期の牧水の代表作の多くを形づくっているのです。

 

園田小枝子との恋

「白鳥や」の歌を詠んだ明治四十年(1907)、牧水と園田小枝子の交際が始まります。初めてデート(当時風のことばでいえば「あいびき」とでもいうでしょうか)をしたのは六月ごろ、武蔵野の山で二人は充実した時間を過ごしました。小枝子は広島県出身ですが、上京の少し前には須磨で療養生活を送っており、牧水とは神戸で一度顔を合わせただけでした(このあたりの詳細は、俵万智『牧水の恋』に詳しく書いてあります)。

小枝子は人妻であり、子どももいたのですが、明治四十年に上京し牧水と交際するようになります。なぜ彼女が上京したのかというはっきりとした理由や、その正確な時期はいまもわかっていない部分が多く、小枝子という女性のミステリアスな部分が浮き彫りになります。

 

翌明治四十一年(1908)の早春、牧水と小枝子は千葉の根本海岸を訪れ、幸せな時間を過ごします。この逢瀬を詠んだと思われる一連の作品が、この年の七月に出版される第一歌集『海の声』に収められました。

牧水は小枝子と結婚する気満々で、東京に「新居(仮)」をおさえるなど恋に突っ走っています。この「新居(仮)」に小枝子が来ることは一度もありませんでした。やれやれという感じです。

『海の声』出版と同月の七月、牧水は早稲田大学英文科を卒業します。坪谷に帰った牧水は家族に東京で文学者を目指すことを告げたのでしょう。父は財産を失い、母は病床にありましたが、説得されても牧水の決意はゆらぎませんでした。その頭の中には小枝子の存在も大きくちらついていたに違いありません。啄木とは違う形ではありますが、牧水もまたある意味では故郷を捨てた歌人になったのです。

 

このころ、牧水は小枝子が人妻であったことや、彼女の従弟で牧水にもよくなついていた赤坂庸三との仲むつまじさを知ったともいわれています。恋に不穏な波が押し寄せようとしています。

明治四十三年(1910)、この年は石川啄木の『一握の砂』が出版された年として記憶されるべき年ですが、牧水は第二歌集『独り歌へる』と第三歌集『別離』を刊行しています。

『海の声』と比べると暗く重苦しいタイトルが、端的に小枝子との恋のゆくえを示しているように思います。そして牧水は甲州や信州へ長い旅に出ます。生涯続く断続的な旅の始まりです。小枝子との仲が終わりを迎えるのは、翌明治四十四年(1911)のことでした。

 

牧水の初期作品を読んでいく際には、この小枝子との恋の顛末を知っておくことが欠かせません。生涯の代表作と呼ばれるいくつかの作品に、小枝子の影がちらついているのです。小枝子との関係のおわりは、そのまま牧水の青春時代の終わりを意味していました。

 

その後の牧水

小枝子を失ってしまい(そもそも最初から手に入れられるはずもなかったのですが)悲しみに暮れる牧水でしたが、恋のおわりは新たな恋をもたらします。

この年(明治四十四年)の夏ごろ、牧水は旅先で太田喜志子という女性と出会います。喜志子には歌の心得があり、信州出身で著名な歌人であった太田水穂の親類でもありました。牧水と喜志子は翌明治四十五年に結婚し、三人の子供を得るなど生涯をパートナーとして過ごしました。ここから牧水は中期~後期の円熟期を迎えていきます。

 

このころ、牧水はふたつの大きな死を経験します。

ひとつは友人であり同時代を代表する歌人であった石川啄木の死、もうひとつは父・立蔵の死です。啄木の死は喜志子に求婚した直後、立蔵の死は喜志子との婚約が成立した直後のことでした。牧水は父を看取ったあと、結婚したばかりの喜志子と長男・旅人を東京に残し、一時的に故郷・坪谷で生活します。

この時期に出版された歌集『死か芸術か』『みなかみ』では、青春を終え現実に引き裂かれた牧水の苦悩が見え隠れしており、初期の『海の声』にあるような開放的な世界とは対照的な、現実の閉塞感が描かれています。

 

大正二年(1913)、『みなかみ』を発表したこの年に牧水は東京へ戻り、妻子との生活がようやくスタートしました。喜志子というパートナーを得た牧水は、幸せで落ち着いた人生を過ごしました――と言いたいところですが、牧水の心は日本全国をあてどなくめぐる「旅」へと向かっていきました。

ここからの牧水は、旅をして――それも観光地や名所ではなく、何の変哲もない田舎町や無名の山川を訪ねては酒を飲み、歌を詠むという放浪の生活に入ります。そんな奔放な牧水の旅を、支えていたのが喜志子だったのです。

 

牧水の死は昭和三年(1928)、妻・喜志子との生涯の居であった静岡県・沼津の自宅にて、肝硬変により息を引き取りました。長年息をするように飲み続けていた酒が、ゆっくりと、しかし確実に牧水の身体を蝕んでいたのです。

青年前期の小枝子との情熱的な恋、それを捨ててからの喜志子との穏やかな恋、一生をかけて歌った酒や旅と、牧水は常々変化する自らの境遇を飾らず素直に歌った歌人と言えるでしょう。だからこそ、世代を越えて愛され、近代日本を代表する文学者の一人に数えられているのです。

 

『海の声』について

初期牧水をどう読むか

牧水が早稲田大学在学中に出版した第一歌集『海の声』は、いわゆる自費出版であり部数は非常に限られていました。また、小枝子との恋が行き詰っている最中に編まれた『独り歌へる』も同様で、中央歌壇ではほとんど話題にならないものでした。

こうした現状を変えたのが、『独り歌へる』と同じ年に発表された第三歌集『別離』の成功です。この三冊が初期牧水、つまり上京してから小枝子と出会い、別れるまでの牧水が残した歌集です。

 

『別離』は実のところ、『海の声』と『独り歌へる』を再編集し一冊にまとめた歌集です。そしてこれまでの二冊とは異なり、大手の出版社から刊行されたため、広く同時代の歌人に読まれるものになりました。

今風に言えば、『海の声』『独り歌へる』はデビュー前のインディーズ時代の作品で、『別離』はメジャーデビューアルバムといったところでしょう。初期牧水を論じる際は、『海の声』『独り歌へる』『別離』をどのように位置づけるかということが問題になってきます。

収録順は大きく変わっていますが、収録されている歌はほぼ同じである『別離』を中心に、『海の声』『独り歌へる』も適宜扱うという方法もありますが、ここでは『海の声』を単独で扱っていきたいと思います。

 

『海の声』は青春歌集です。

のびやかで開放的な青年の叙情の中に、言いようのない青春の孤独や悲哀が溶け込んでいます。『別離』はどちらかというと理知的で、歌の配列にもかなり手が加えられていることから、牧水と小枝子の関係を中心にした一冊の小説を読んでいるような気分になります。どちらがいいというわけではありませんが、まずは『海の声』の粗削りながらエネルギーにあふれ、自然の魅力に満ちた部分を味わっていきましょう。

 

『海の声』を読む

われ歌をうたへりけふも故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ

 

『海の声』冒頭の作品です。牧水の生涯の決意を表している作品ともいえるでしょう。

三句目の「故わかぬ」がやはり目を引きます。牧水は代表作である「白鳥や」の歌にも見られるように、「かなしい」や「さみしい」といった感情をよく歌に出していましたが、何がそんなに「かなしい」のかは明確に言語化していない部分があります。

あえて言うとすれば、それは「われ」が生きていることで必然的に生じる「かなしみ」なのかもしれません。われという存在が中心にあり、その周囲を「理由もなく」かなしみたちが渦巻いている。われとかなしみがお互いに引き付けあうことで、歌人は歌を歌わずにはいられなくなるのです。

これを巻頭歌に持ってくることが自己陶酔的ともいえなくもないですが、それは決して甘い陶酔ではありません。自らの生を「かなしみ」と自覚し始めた青年の、自己意識の芽生えが表されているのです。

 

わがこころ海に吸はれぬ海すひぬそのたたかひに瞳は燃ゆるかな

 

取り上げられることが少ない作品と思いますが、三句目でばっさりと切れて力強いところや「たたかひ」「燃ゆる」といった情熱的な部分に惹かれる作品です。

 

『海の声』には章立てがなく、時折牧水による詞書や、簡単な歌の背景の説明が入ります。この歌は、歌集前半の「以下四十九首安房にて」と記された歌群の五首目に位置しており、千葉の根本海岸で過ごしたあの小枝子との燃えるような数日間の逢瀬を歌っていることがわかります。この歌群には名作が多く、『海の声』の読みどころのひとつと言えます。

 

海に吸われたり、逆に海を吸い込んだりする牧水の若き「こころ」。幸せの絶頂にある牧水が海と一体化し、その広いこころで小枝子を迎え入れようとしているとも読めるでしょう。この歌の後ろに置かれている作品、たとえば<ああ接吻くちづけ海そのままに日は行かず鳥ひながらせ果てよいま>や、山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざくちを君>はもっと直接的な作品です。愛する小枝子との口づけの前に、牧水は海という壮大に向き合いながら、気持ちを昂らせ瞳を燃やしている。この緊張感が牧水の恋の歌の魅力なのです。

 

地震なゐす空はかすかに嵐して一山白き山ざくらかな

 

純粋に自然を歌う、いわゆる「自然詠」にあたる作品は、近年の若い歌人のあいだでは少なくなってきました。自然が身近でなくなりつつあることが関係すると思われますが、自然豊かな坪谷で育った牧水は、まさにそうした自然詠の名手でした。

 

牧水が生涯好んだモチーフの一つにこの「山ざくら」があります。雄大な坪谷の山で可憐に花を咲かされている小さな山ざくらに、牧水は少年のころから魅了されていました。山ざくらを歌った作品には、小枝子との恋の歌に見られる大胆さとは違う、花を愛でる繊細な少年の心が光っています。<なにとなきさびささ覚え山ざくら花あるかげに日を仰ぎ見る>という歌もありますが、どこかあの「故わかぬかなしみ」と通じるところもあります。

 

さて、掲出の「朝地震なゐす〜」の歌では、早朝、村を襲う地震が大地の鳴動をつたえ、それに呼応するように空にもかすかな嵐が訪れるということを述べています。嵐はその気配に過ぎないのかもしれませんが、そこには大自然のエネルギーが満ち満ちています。

そのスケールの大きさに対比させるように、美しく可憐な山ざくらの花が描き出される。視点の切り替えが見事です。

 

海の声山の声みな碧瑠璃の天に沈みて秋照る日なり

 

「海」や「青春」のイメージとは裏腹に、初期牧水においてもっとも多く歌われている季節は「秋」だといわれています。牧水研究で名高い歌人の伊藤一彦さんが指摘していますが、さんさんと陽の照る夏を過ぎ、心が沈むうら悲しき「秋」という季節を牧水は象徴的に歌っています。<うつろなる秋のあめつち白日のうつろの光ひたあふれつつ>など、ここで歌われているのは細やかな秋の気配というよりは、気分の投影としての「秋」なのです。

 

牧水の歌では、自然としては対照的な「海」と「山」が互いに接近し、非常に近いものとしてとらえられている印象があります。「海の声」「山の声」と並列させたこの作品もそうです。

牧水は「海」に大きな憧憬を抱いた歌人です。そのため、仮に「山」にいたとしても「海の声」を聴き分けてしまう聴覚を持っていたのではないかと思います。坪谷の山と延岡の海、対比させるというよりもそれらは牧水の中でひとつの自然として調和しています。

「秋照る日なり」と最後はおおらかに着地していますが、多感な青年期のもの悲しさが「秋」という季節の中で、「海の声」「山の声」とともに響きあっているのです。

 

死ぬ死なぬおもひ迫る日われと身にはじめて知りしわが命かな

 

「四首病床にて」と題された一連の2首目にある歌です。

若いころの牧水は病弱というわけではありませんでしたが、あるとき体調を崩したことで自分の「命」と向き合わざるを得なくなった、そんな実感が歌われています。現代ほど医療も発達していない時代ですから、当然、ただの風邪やはやり病といっても油断は禁物だったはずです。だからこそ、病床でいつ訪れてもおかしくはない「死」が迫る足音に耳を澄ましているのです。

 

『海の声』にはわずか三首が残されているだけですが、『独り歌へる』以降の牧水は「いのち」「命」「生命(いのち)」という語を多用したと、前述の伊藤さんは指摘しています。

自然や人間に偶然宿る「いのち」のスケールの大きさを、牧水は追い求めたのだろうと思います。病床で詠まれたというこの歌は、牧水が「いのち」の壮大さに気づくきっかけとなった、地味ながら重要な歌だったのかもしれません。

そういえば、同年代の啄木は<いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/握れば指のあひだより落つ>という歌を残しています。「いのちなき」ものにいのちを見出す悲しみは、啄木が生来病弱だったことと無関係ではないでしょう。牧水の壮大ないのち、啄木のはかないいのち、どちらも近代という時代が生み出した人間存在の新たな形であることは変わりありません。

 

けふもまたこころのかねをうち鳴らしうち鳴らしつつあくがれて行く

 

牧水の全作品のなかでも、もっとも重要な歌のひとつです。

歌集の中盤に「旅ゆきてうたへる歌をつぎにまとめたり」と詞書があり、その中の「十首中国を巡りて」という一連に収められています。ちなみに「中国」とはお隣の国ではなく、明治四十年に旅行した山陰・中国地方をさしています。この中国地方への旅は、青年牧水による最初の本格的な旅でした。

 

あくがれ」つまりあこがれは、牧水短歌のもっとも重要なエッセンスです。幼い日の牧水は山深い土地で海にあこがれ、思春期の牧水は同級生たちとともに文芸にあこがれ、青年前期の牧水は美しい小枝子との恋にあこがれました。

喜志子との安寧を得て以降も、牧水のあこがれはとどまるところを知らず、そのあこがれる心は素朴な自然や旅へと向かっていくのです。あこがれとはこのように、新たな地を絶え間なく求めることをさしています。

 

「こころの鉦をうち鳴らし」とあるように、旅という非日常は心の内側から湧いてくるような高揚感に満ち満ちたものです。そうした何かに突き動かされるような気持ちで「けふもまた」旅をしている青年。人生は旅の連続であることを、このとき青年は悟りかけているように思います。

この歌の中では、旅の具体的な目的地やその理由は一切語られません。「あくがれる」から旅をするのです。「ここではないどこかへ」というヒットソングを歌ったバンドがありましたが、まさに牧水は生涯そのような気持ちで旅を続けていたのです。

 

まったく文脈は違いますが、ぼくはこの歌を初めて読んだとき、ジャック・ケルアックというアメリカの作家が書いた『オン・ザ・ロード』という小説を思い出しました。アメリカの端から端まで、常にパンクにロックに旅をする奔放な青年たちの物語で、いわゆるアメリカン・ロード・ノヴェルの代表作として文学史に燦然と輝く作品です。

『オン・ザ・ロード』の青年たちは、ただ見えないものに「あこがれ」、見えている現実を否定する旅を続けていきます。目的のない旅という意味では牧水のそれと通じるところがありますね。

 

幾山河超えさり行かば寂しさのてなむ国ぞ今日も旅ゆく

 

「けふもまた~」の歌の一首後に収められている作品です。教科書の牧水短歌といえば、こちらを思い出すという人も多いでしょう。牧水の最高傑作のひとつです。

 

歌の意味はシンプルで、「どれだけ山や川を越えていけば、寂しさの果ててしまう国だろうか」というようなことを歌っています。これは逆説的に、「どれだけ山や川を越えていっても、寂しさのはててしまうことはない」という、旅の本質の部分へ切り込んでいます。

つまるところ、旅は寂しさの連続なのです。そしてそれは、人生という長い旅路にとっても同じこと。寂しさを感じることで、人は生きる力を得るのでしょう。

後年のぼくたちは、このころの小枝子との恋がまさに「寂しさ」に満ち溢れたものであったことを知っています。「寂しさ」を内に抱えながらも、青年は前へ進んでいく。つねに何かに「あこがれ」てそれを追い求める姿勢が、「今日も旅ゆく」という青年の奔放へつながっていくのです。

 

君かりにその黒髪に火の油そそぎてもなほわれを捨てずや

『海の声』終盤の恋の歌で、小枝子との関係がどことなく不穏なものになっていることを感じさせます。歌集の前半、根本海岸で結ばれたときの一連には<君かりにかのわだつみに思われて言ひよられなばいかにしたまふ>という歌がありました。

牧水はしばしば海というものに何か人格がやどっているかのように歌いましたが、自分と小枝子の背景としてある海にまで嫉妬し、「もし海に言い寄られたら、きみはどうする?」なんて、めちゃくちゃもいいところです。めちゃくちゃではありますが、それだけ小枝子との恋が情熱的な恋であったということを、後年のぼくたちは知っています。

 

小枝子は人妻であり、牧水はせいぜい大学生の純情な青年です。二人の間には経験という大きな壁が立ちはだかっています。

「海に言い寄られたら、きみはどうする?」くらいならかわいいものかもしれませんが、「きみの黒髪に火の油を注いでも、ぼくを捨てないでいてくれる?」までくると、ほとんど猟奇的です。人妻である小枝子には(牧水はその事実をはじめ知らなかったのですが)、決して与えられない絶対の愛を、牧水は求めているのです。

 

小枝子も牧水のその純真を一度は愛し、二人が短期間ながら結ばれたことは事実として残っています。『独り歌へる』以降の世界では、そうした恋によってさらに拡張した牧水の内面世界が、より文学的に、より繊細に歌われることになるのです。

 

もっと知りたい人へ(参考文献一覧)

牧水関連書は数多くあり、伝記的な部分も作品の解説も非常に充実しています。ここでは本記事を執筆するにあたって筆者が特に参考にした文献をあげておきます。(なお、作品部分に関しては青空文庫の『海の声』を使わせていただきました)

 

『あくがれゆく牧水―青春と故郷の歌』伊藤一彦(2001、鉱脈社)

伊藤一彦さんは宮崎県出身の歌人で、牧水研究の第一人者として知られています。結社「心の花」の重要な歌人でもあり、現代の歌壇を代表する人物の一人です。

宮崎県から早稲田大学へと、牧水と同じ道をたどった伊藤氏による包括的な牧水論で、牧水を論じるもっとも基本的な一冊と考えられます。とくに「あくがれ」をキーワードに初期牧水の秀歌を読み解いていく章は、一読二読の価値があります。

 

『牧水の心を旅する』伊藤一彦(2008、角川学芸出版)

伊藤一彦さんの本をもう1冊。こちらは前掲書よりも初心者向けの印象で、牧水短歌をより幅広く解説した本になっています。

牧水と白秋の比較や、自費出版だった『海の声』や『独り歌へる』が実際当時の歌壇でどう読まれたのかなどを論じる章は大変興味深く、多角的ですぐれた牧水論といえるでしょう。

 

『ぼく、牧水!―歌人に学ぶ「まろび」の美学』伊藤一彦・堺雅人(2010、角川oneテーマ21)

俳優の堺雅人さんは、伊藤さんが宮崎県の県立高校教師をしていたころの教え子であり、牧水と同じ早稲田大学出身ということで、なにかと牧水に縁の深い人物です。

本書は堺さんと伊藤さんの対談という形で、ふたりが(牧水さながら)酒を飲みつつ文学談義をくりひろげていきます。堺さんが語る演劇と牧水短歌の共通点、伊藤さんの語る牧水という生き方、どちらもさすがの読み応えです。こういう教え子と先生の関係、あこがれます。

 

『若山牧水への旅―ふるさとの鐘』前山光則(2014、弦書房)

今回の参考文献の中で、もっとも牧水の一般的な評伝に近いものです。「旅」と題されていますが、牧水短歌における<ふるさと>の意味を探ることが主題となっています。

 

『牧水の恋』俵万智(2018、文芸春秋社)

『サラダ記念日』の著者であり、短歌結社「心の花」所属でもある俵万智さんが、牧水と小枝子の恋を中心に論じた作品です。エッセイ風で読みやすく、複雑な牧水と小枝子の恋の顛末がよく整理されています。俵作品と牧水作品の比較という興味深い章もあり、稿を改めたいところ。

 

おわりに

牧水は表象的なイメージで語られがちな歌人です。「海」「恋」「旅」「酒」といったエッセンスがわかりやすく、歌もそれほど難解ではないからでしょう。

もちろん、そうした形で歌が人口に膾炙し、読み継がれていくことは大切なことでもあります。だからこそ、何十年にもわたって教科書に短歌が採用され続けているのですから。

 

一方で、牧水という歌人はそれほど簡単に論じることはできないということも、この記事を執筆してよくわかりました。牧水短歌はひとつのテーマで包括的に論じることができる部分と、複数のテーマが複雑にまじりあって分厚い層のようになっている部分の両面があります。歌集も多く、本格的に研究するのならライフワークとして扱う覚悟が必要でしょう。

しかし、牧水はきっと、短歌を始めたばかりの人でも、短歌を生涯の仕事として考える人にも、常に新しい読みやテーマを提供し続けてくれる歌人です。初心者の人にも、牧水の短歌を読んで新しい発見がきっとあるはずです。知れば知るほど奥深い、そんな牧水の世界を楽しんでほしいと思います。

 

東京・日野市の百草園(もぐさえん)は、牧水が小枝子と幸せな時間を過ごした武蔵野の丘陵にあります。いまでは多摩地区の発展を見渡すことができる展望台になっていますが、牧水はここで小枝子との思い出にふけりながら、第二歌集『独り歌へる』を編集しました。園内には(かすれてもう読むことはできませんが)、牧水の長男・旅人氏の設計による歌碑も残されており、牧水ゆかりの地として毎年多くのファンが訪れます。

(撮影:貝澤駿一 2020年9月22日)

 

この記事を書いた人

貝澤駿一

1992年横浜市生まれ。「かりん」「gekoの会」所属。2010年第5回全国高校生短歌大会(短歌甲子園)出場。2015年、2016年NHK全国短歌大会近藤芳美賞選者賞(馬場あき子選)。2019年第39回かりん賞受賞。

Twitter@y_xy11

note:https://note.com/yushun0905

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