教科書に載っている歌人の作品を読んでみよう!~石川啄木『一握の砂』編~

コラム

みなさんこんにちは。TANKANESSライターの貝澤駿一です。この記事を書いているのは5月のおわりですが、全国的に少しずつ休校が解除されていっていますね。学校の授業が待ち遠しいなあという気持ちの学生さんもたくさんいるのではないでしょうか。

さて、小学生・中学生・高校生のみなさんは、日本の伝統文学である「短歌」を学校で学ぶ機会があると思います。何を隠そう、ぼくも中学校の国語の授業で短歌と出会いました。正確に言うと、ぼくは授業中に国語の便覧(あの分厚くて、重たい、資料集のようなやつです)を意味もなく片っ端から読んでいるような困った子どもだったので、その便覧を通じて日本を代表する多くの歌人の名前を覚えたのです。もちろん、新しい国語の教科書が届くと、まず真っ先に短歌や俳句、詩のページを読んでいました。

まさか自分で短歌を作って発表することになるとは、中学生のころは思いもしませんでしたが、高校に入学すると、ひょんなこと(どんなこと?)から歌を作ってネットやラジオに投稿する日々が始まります。便覧や教科書を読んでいなかったら、そんなこともあり得なかったでしょう。

このように、ぼくにとってはその後の人生を決めてしまうくらい、大切な出会いであった「教科書の短歌」ですが、残念ながら多くの小中高生のみなさんは、あまり魅力的とは思わないのでないでしょうか。古めかしい言葉で書かれているし、作者の写真もまるで幕末の志士のようなものばかり。先生が「現代語」で説明する意味をノートに書きうつしていると、ものすごく遠い外国語の詩を勉強しているみたいに感じてしまう。自分もそうだったとはいえ、なんだかもったいないなあと感じます。

ということで、前置きが長くなりましたが、「国語の教科書に載っている歌人」の作品の魅力を、みなさんに知ってもらうためにこの記事を執筆しました。その中でも今回は「石川啄木(いしかわたくぼく)」という歌人を取り上げようと思います。名前は知っていると思いますが、石川啄木とはどんな人で、どんな短歌を詠んだのでしょうか。この記事では、啄木の代表作にして生前出版された唯一の歌集である『一握の砂(いちあくのすな)』(明治43年)を読んでいくのですが、その前に、その生涯を簡単に振り返ってみたいと思います。

 

啄木ってどんな人?

稀代の文学者であり、借金の天才

まずは、この歌を声に出して読んでみてください。

はたらけど
はたらけどなほわが生活くらし楽にならざり
ぢつと手を見る

 

『一握の砂』に収められている、全551首の中で、もっともよく知られた歌のひとつです。はたらいてもはたらいても生活が楽にならないという悲哀は、仕事に忙殺される現代人にも通じるところがありますね。

 

この歌の作者、石川啄木(1886~1912)は、生涯を通じて壮絶な貧困を生きた歌人です。

啄木は北海道や東京で職を転々としながらも、文学者の道を捨てきれず、そのうえ病弱な家族を養わなければなりませんでした。そのため、生活に必要なお金のほとんどを友人や支援者からの借金で賄っていたといわれています。借金を返すために借金をするような、典型的な借金地獄の中で、後年傑作と言われる短歌の多くが生み出されました。もっとも、借金が膨れ上がったのは啄木の浪費癖によるところも多く、借りた金で高額な洋書を購入したことや、酒を飲んでいたことが、彼の残した「日記」や「手紙」に記録されています。

啄木は借金の天才であり、返す当てもないのについつい金を貸したくなるような、見捨てておけないところがあったのですね。ちなみに、赤裸々な啄木の「日記」や「手紙」は、それこそが日本近代文学の最高峰だという声も少なくありません。

 

石川啄木は、本名を石川一といい、岩手県の日戸村という小さな農村に、住職の子どもとして生まれました。1歳で父の仕事の関係で渋民村に移り住み、この村を生涯故郷として愛したといわれています。幼いころは大変な神童でもてはやされ、抜群の成績で盛岡中学(現在の盛岡一高)へ入学しますが、やがて啄木は文学に傾倒するあまり、学校の成績が落第スレスレになってしまいます。

そして、苦手な数学の試験でカンニングをしたことがばれて、ついに放校処分を下されしまうのです。後年、啄木は短期間の職を転々とするのですが、それには少なからずこの中退歴が影響したと思われます。今でいえば、「非正規雇用」の職にしかありつくことができなかったのです。

明治35年(1902)、十七歳の啄木は、文学で身を立てるため単身上京し、雑誌「明星」を編集していた与謝野寛・晶子夫妻(そう、こちらも教科書でおなじみの「与謝野晶子」です)と知り合います。しかし、結局健康を害し、1年ほどで岩手へ連れ帰られてしまいました。生涯続く啄木の借金癖は、この最初の上京の時に始まったといわれています。

 

自伝的に見れば、この上京は紛れもなく「大失敗」に終わりましたが、成果として処女詩集『あこがれ』が20歳のときに出版されました。この詩集は天才少年・啄木の残した名作として、現在でも広く読まれています。

なお、啄木は19歳で堀合節子と婚約し、翌々年には長女・京子も生まれ家庭を持つことになります。若き啄木の結婚は、自分の筆で家族を養わなければならないというプレッシャーとの戦いの始まりでもありました。

 

その後、啄木は故郷・渋民村の小学校で1年ほど代用教員をしたのち、北海道に渡って函館で再び代用教員となります。函館は啄木が「第二の故郷」と呼ぶほど愛した町でしたが、明治40年(1907)の大火で町は火の海になってしまいます。函館を去った啄木は、友人たちの伝手を頼って、札幌、小樽、釧路の小さな新聞社でそれぞれ校正係や記者、編集長として働きますが、どれも長続きはしません。全部を合わせても、北海道にいた期間はほんの1年ほどでした。

 

文学への道をあきらめきれず、再び啄木が上京するのは明治41年(1908)のことです。この時点で啄木の生涯はあと4年ほども残されていません。東京では校正係として入社した朝日新聞社で働くかたわら、衰退した「明星」にかわって雑誌「スバル」を創刊したり、小説や詩論、短歌を次々に発表したりと、旺盛な文学活動が目立ちます。明治43年(1910)に『一握の砂』を刊行しましたが、これ以降啄木は結核に苦しみ、北海道から呼び寄せた妻・節子や母・カツも同じ病に侵されるなど、厳しい生活を送っていました。明治四十五年、啄木は父、妻と友人であった歌人・若山牧水に看取られ、27歳で永眠します。

 

啄木は短い人生の間に、多くの職を転々とし、また多くの友人たちに支えられながら、近代文学史に残る傑作をいくつも生み出してきました。啄木の短歌の魅力は、まさにその時代に啄木が生きた証として読むことができるところにあると、ぼくは思っています。啄木の歩いてきた厳しい道のりを知ることで、彼の短歌がよりいっそう輝いて見えるのです。

 

『一握の砂』について

『一握の砂』は啄木の死のおよそ2年前、明治43年に刊行された、彼の生前唯一の歌集です(死後、友人たちの尽力によって第二歌集『悲しき玩具』が発表されています)。

啄木の暮らした東京、北海道、そして盛岡、渋民での生活がやや感傷的に、そして克明に記録された、近代歌集の最高傑作のひとつです。そのほとんどの作品は、明治四十三年に東京で詠まれたもので、回想のかたちをとっているのが特徴です

序文には、<函館なる郁雨宮崎大四郎君/同国の友文学士花明金田一京助君/この集を両君に捧ぐ。>とあり、生涯啄木を支え続けた親友である、宮崎郁雨(いくう)金田一京助への感謝の辞が記されています。

歌集は「我を愛する歌」「煙」「秋風のこころよさに」「忘れがたき人人」「手套を脱ぐ時」の五部で構成され、このうち「秋風のこころよさに」だけは「明治四十一年秋の紀念なり」と記されていて、ほかの章は明治43年の歌作が中心です。収録されたすべての作品は、独特な「三行書き*で書かれていますが、これは啄木晩年の友であった土岐善麿(ときぜんまろ)の歌集『NAKIWARAI』の影響といわれています。

*本稿の<>内の引用部分では行の切れ目を「/」であらわすことにします。

 

それでは、前置きが長くなりましたが、章ごとにいくつかの作品をピックアップして読んでいきましょう。

「我を愛する歌」

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

歌集の巻頭を飾る作品です。教科書に取り上げられることも多い作品ですね。

初句の「東海」から「小島」「」「白砂」を経由して、「われ」と「」へズームしていく、そのカメラワークが見事というほかありません。
「泣きぬれて~たはむる」という感傷的な結句には、青春の甘酸っぱさや、「我を愛する歌」と題されているように、自己に対する陶酔感が込められています。

 

この歌の舞台は、函館の大森浜という海岸です。函館時代の啄木は短いながらも安定した職に恵まれ、生涯でもっとも穏やかに暮らしたといわれています。

<頬につたふ/なみだのごはず/一握の砂を示しし人を忘れず>
<いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/握れば指のあひだより落つ>
<大という字を百あまり/砂に書き/死ぬことをやめて帰り来たれり>
と、歌集の冒頭には大森浜を歌ったと思われる作品がいくつか並んでいます。「いのちなき~」の歌にあるような、ある対象への情愛を示す作品に、啄木らしさがよく表れています。

 

たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず

ふとお母さんを背負ってみたら、あまりにも軽くてこみあげるものがあった。そして三歩も歩くことができなかった。感動的な場面であり、啄木の母への深い愛情が示されています。

啄木の母・カツは彼を溺愛したといわれており、啄木もまた母を愛していました。妻の節子とカツはあまり馬が合わなかったようで、節子のほうが耐えかねて家出をしたこともありました。そんなとき、決まって啄木は母への愛と妻への愛の間で板挟みとなり、結果として妻の要求を満たすことができず、つらい思いをさせてしまっていたのです。

 

こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて死なむと思う

渡り鳥のように転職をくりかえした啄木ですが、どの職場でもそれなりにまじめに働いていたようで、いくら給料を前借りしても疎ましく思われるということはありませんでした。<こころよき疲れなるかな/息もつかず/仕事をしたる後のこの疲れ>という歌も有名ですが、労働は啄木にとって数少ない喜びのひとつだったのかもしれません。新聞社の校正の職に就いていたときには、小説家・二葉亭四迷の全集の校正を任されるなど、大きな仕事にも携わっていたようで、校正者としての啄木の有能さが計り知れます。

 

一方で、「我を愛する歌」に限らず、このころの啄木の歌には「死」を希求するような暗い影も付きまといます。どんよりと/くもれる空を見てゐしに/人を殺したくなりにけるかなといった不穏な歌や、死にたくてならぬ時あり/はばかりに人目を避けて/怖き顔すると、もっと直接的に死に寄っていく歌もあります。体調も一進一退で、精神的にも不安定な時期なのでしょう。労働には不安定な啄木をギリギリ正常につなぎ留めておく、そういった意味もあったのかもしれません。

 

誰が見ても
われをなつかしくなるごとき
長き手紙を書きたきゆふべ

 

啄木が友人たちにあてた手紙は、それ自体が文学的に大きな価値のあるものとして、深い研究の蓄積があります。まだ20代の啄木が、自分のことを「なつかしく」思ってもらえるような手紙を書きたいと言っているのが、いじらしくも切なくも思える作品です。まるで自分が数年後、遠くへ行ってしまうことを悟り始めているかのようです。

 

人みなが家を持つてふかなしみよ
墓に入るごとく
かへりて眠る

 

啄木にとって「家」とは、温かく安心できる場所ではありませんでした。病弱な母と妻、幼い娘を抱え、自らもまた病魔に侵されていた啄木は、まるで「墓」に入るように家へ帰り、そして眠りについていたといいます。

職場だけではなく、下宿も転々としていた啄木ですが、その資金はたいていの場合、金田一京助や宮崎郁雨といった友人たちが用立てていました。「家」にいるということは、そうした後ろめたさを感じさせることでもあったのです。

 

早い結婚で若くして大黒柱にならなければならなかったことや、貧困が原因で幾度となく一家離散を繰り返していたことなど、啄木の「家」に関する辛酸を感じる作品です。

 

「煙」

己が名をほのかに呼びて
涙せし
十四の春にかへる術なし

 

第二部の「煙」は、盛岡で過ごした中学時代の回想が描かれている(一)と、故郷・渋民村の回想が描かれている(二)に分かれています。

個人的には、この第二部が『一握の砂』のなかでもっともグッとくる章で、中でもこの「己が名を~」の歌は、啄木の歌のなかでぼくがもっとも好きな作品です。

 

野心に燃え、成績も優秀だったころの自分をなつかしみながら、啄木はある陶酔感の中にいます。自分の名(もしかすると、少年時代の啄木が自分でつけた筆名のようなものかもしれません)を呼ぶだけで涙が出てしまうような感傷的な少年の心は、啄木が生涯自分の文学の原風景として持ち続けたものでした。

 

年齢が読み込まれた歌では、<不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心>も有名です。

「不来方のお城」は、盛岡市内にある城のことを指しています。大自然の中で自らの「十五の心」の果てしなさに向き合っている少年ですが、なぜか授業をサボってたそがれているような背徳感を感じます。10代の啄木の瑞々しさに親近感がわいてきますね。

 

盛岡の中学校の
露台バルコン
欄干てすり最一度もいちど我を倚らしめ

 

「神童」として盛岡中学に入学した啄木でしたが、文学に熱中しすぎて授業がつまらなくなったのか、成績は不振で遅刻・欠席も多く、ついにはカンニングがばれて放校処分を食らってしまいます。高い学歴を手に入れることができなかったのは、啄木にとって大きなコンプレックスとなりました。

この歌では、後年、人生を振り返ってみたときに自分の文学活動の原点にあった盛岡中学への思いを、たっぷりと感傷を込めて歌いあげています。「露台(バルコン)」とは、いわゆる「バルコニー」のことです。東京で成功を夢見て労苦に耐えた啄木ですが、少年時代の小さな舞台のような「盛岡の中学校の露台」は、時々は戻りたい場所のひとつだったのかもしれません。

 

ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく

 

「煙(二)」は、啄木の故郷である渋民村を懐古した作品が中心です。短期間、啄木が故郷の渋民村で代用教員をした際の思い出を詠んだ作品も収められています。その一連の冒頭に置かれたこの歌は、啄木の代表作のひとつとしてよく知られており、東京・上野駅にはこの歌の歌碑が建てられています。

」つまり「お国言葉」は、最愛の母・カツの姿と結びついています。訛が抜けなかった年老いた母は、次第に口数も少なくなっていったのです。東北の農村から呼び寄せられ、病弱な身内を抱えるのみで、友だちも知り合いもいない東京で孤独に過ごしていた母を思いながら、啄木は混雑する駅の人ごみにそのなつかしい訛を聞きに行ったのではないでしょうか。

 

石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆるときなし

 

渋民村で代用教員をしていた1年近くの間、啄木は立派にその務めを果たしていました。

「日本一の代用教員」を自称するほど、啄木は教師の仕事に誇りをもっていたのです。ところが、住職であった啄木の父が、一部の住民との確執の末に職を追われてしまい、一家は村にいられなくなってしまいます。代用教員を辞した啄木は、妻子を置いて北海道へと向かい、二度と渋民村の土を踏むことはありませんでした。そうした悲しみや無念が「石をもて追はるるごとく」という初句二句から雪崩のように迫ってきます。

もちろん、啄木が実際に投石されたわけではないでしょう。そこにあるのは、石を投げつけられるようにしか故郷を去ることができなかったことへの、どうしようもない後悔の念にほかなりません。

 

よく知られた<かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川>や、<ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな>のような作品は、あまりにも素直すぎるというか、短歌としてシンプルすぎるというか、一見すると歌として優れたものではないようにも思えます。しかし、ひとたび啄木の人生を知ると、むしろこんな形でしか故郷である渋民村を歌うことができなかった啄木の、深い悲しみが表現されていることに気づかされるのです。

 

「秋風のこころよさに」

 

さらさらと雨落ちきた
庭のの濡れゆくを見て
涙わすれぬ

 

秋の雨のもの悲しさは、いつの時代も共有される普遍的な感情ですが、この歌からはそれをどこか超越した静謐さがにじみでています。庭に落ちる雨が泣いているように思えて、自分の涙をわすれてしまう。

そういえば、幼いころクラスに自分のためにではなく、ほかの友だちのために泣いてしまうような、心優しい子がいたのを思い出します。この秋は自分のために泣いてくれているのかもしれない、そう啄木は感慨に浸ったのでしょう。

 

「秋風のこころよさに」は、歌集の中で唯一、明治41年の作品を中心に編まれている章です。この年、啄木は北海道から二度目の上京を果たし、盟友である金田一京助と下宿を共にしながら、東京での文学活動をスタートさせています。この時期の啄木の歌作には、「明星」時代のやや古風な言い回しが残っていることも目を引きます。

 

「忘れがたき人人」

 

大川おおかはの水のおもてを見るごとに
郁雨よ
君のなやみを思ふ

 

宮崎郁雨は啄木の人生を語るうえで、欠かすことのできない人物です。函館で啄木と出会った郁雨は、啄木のもっともよき理解者であり、裕福であったために金銭的にも頼りにされていました(おそらく啄木にもっとも多くの金を貸した人物でしょう)。

また、郁雨は啄木の妻・節子の妹ふき子と結婚したので、ふたりは義理の兄弟の関係でもありました。北海道から啄木が上京する際に、残された母と妻、幼い娘の世話を頼まれ、生活費を援助したのも郁雨です。ほとんど寄生していたといってもいいでしょう。

 

歌自体は「大きな川の流れを見ていたら、郁雨君の悩みについて思うところがあった」というようなシンプルな意味ですが、啄木の郁雨に対する好意や敬意が率直にあらわれていて、とても好感が持てる作品です。

しかし、これだけ大事にしていた郁雨との友情ですが、啄木は死の直前、妻・節子と郁雨の不貞を疑い、一方的に絶交を宣言してしまいます。歌集の序文で恩人として名前を挙げたにもかかわらず、ふたりは啄木が死ぬまで絶交したままでした。このエピソードを読み、郁雨を思うたびにぼくは切なくて胸が痛くなります。

 

啄木が郁雨を詠んだ歌はこの前後にもあります。

演習のひまにわざわざ/汽車に乗りて/訪(と)い来(き)し友とのめる酒かな
智慧とその深き慈悲とを/もちあぐみ/為すこともなく友は遊べり

函館で啄木は郁雨やその仲間たちとよく集まり、酒を飲んでは文学や恋愛について語り合いました。それはさながら気の合う仲間たちと目標を同じくして切磋琢磨する、サークルのようなものだったのかもしれません。せいぜい大学生の年齢であったこのころの啄木にとって、郁雨との出会いはどれほど大きかったことか。

「忘れがたき人人」の一連は、「煙」と同じように(一)と(二)に分かれていますが、(一)には啄木が北海道時代に出会った友人たちとの回想の歌が、瑞々しくもはかなげに光っています。

 

さりげなく言ひし言葉は
さりげなく君も聴きつらむ
それだけのこと

 

「忘れがたき人人」の(二)は、一連が丸ごと橘智恵子という女性に捧げたもので、静かな恋心が歌われています。橘智恵子は、啄木がもっとも精神的に安定していた函館時代に、勤務先の弥生尋常小学校で同僚であった女性です。すでに妻・節子がいたということもあり、啄木の智恵子に対する愛情は、あくまでプラトニックなものであったといわれています。

さりげなく」のリフレインから、「それだけのこと」とやわらかに着地するこの作品では、智恵子へのひそかな思慕が詩的に表現されています。「ぼくがさりげなく言う言葉を、きみもさりげなく聴いてくれる」なんて、ナルシストっぽいところはありますが、青春のあわさに満ちていて、ちょっとかわいらしいですね。

 

智恵子のことが忘れられなかった啄木は、上京してからもたびたび手紙を書きながら、静かに思いを募らせ、歌に詠んでいたものと思われます(『一握の砂』の歌のほとんどが明治四十三年作であることを思い出してください)。

馬鈴薯(ばれいしょ)の花咲く頃と/なれりけり/君もこの花を好きたまふらむ
わかれ来て年を重ねて/年ごとに恋しくなれる/君にしあるかな
など、歌としては優れたものではないかもしれませんが、啄木の素直さが垣間見えて好感の持てる作品です。

 

「手套を脱ぐ時」

売り売りて
手垢きたなきドイツ語の辞書のみ残る
夏の末かな

 

常に借金まみれだった啄木ですが、本だけはよく読み、そして読んでは売ってということをくりかえしていました。ツルゲーネフ、オスカー・ワイルドなどを愛読したといわれていますが、啄木がもっとも愛した文学者はワーグナーでした。

もっとも、こうした洋書は高価なもので、とても啄木の給料で日常的に買うことのできるものではありません。啄木には社会主義者の側面もありましたが、「西洋かぶれ」とはいかないまでも、こうした最先端の文学に少なからず影響を受けていた事実がうかがえます。

文学を学ぶ人ならだれでもそうだと思いますが、「辞書」はもっとも特別で、そしてしばしばもっとも愛着のあるものとして大切に扱い、手元に置いておくものでしょう。あらゆる本を売っても手放さなかった垢だらけのドイツ語の辞書は、文学を志す青年のすべてがつまった勲章のようなものだったのかもしれません。

 

かなしくも
夜明くるまでは残りゐぬ
息きれし児の肌のぬくもり

 

『一握の砂』の最後に収められている作品です。「息きれし児」とは、明治四十三年の十月に生まれた啄木の長男・真一のことを指しています。啄木が歌集出版の契約をした直後、真一はわずか三週間という短い命を終えました。悲しみに暮れた啄木は、歌集の最後に最愛のわが子への思いを込める一連を収めたのです。

『一握の砂』を啄木の歩んできた道のりそのものだと考えると、たった三週間の命であったわが子の「ぬくもり」がその最後、クライマックスということになります。ページを閉じてもその命の「ぬくもり」がわずかに残るように、啄木はその歩みを止めたかったのかもしれません。それほどまでに真一の死は啄木にとって大きなものでした。

 

夜おそく/つとめ先よりかへり来て/今死にしてふ児を抱けるかな
真白なる大根の根の肥ゆるころ/うまれて/やがて死にし児もありという歌も印象的です。

『一握の砂』には冒頭から死のイメージがくりかえしあらわれますが、ここまで死を具体的にかつドラマティックに描いた作品はありません。「今死にしてふ児」「うまれて/やがて死にし児」というのが逆説的に、さっきまでたしかに生きていたわが子の息吹を感じさせます。それを失った啄木の喪失感は想像するに堪えません。

 

まとめ 『一握の砂』をどう読むか

さて、ここまでぼくが選んだ『一握の砂』の短歌を読んできましたが、みなさんはどのように感じられたでしょうか。内容も平易で、わかりやすい日本語で書かれていると思いませんでしたか。

「生活」を歌った啄木の作品は、「秋風のこころよさに」に数首収められている明星風の作品を除いて、ほとんどが現代語で書かれたものを読むように味わうことができます。

百人一首や古今和歌集を詠むように、複雑な「現代語訳」の作業はほぼ必要ありません。近代歌人を勉強してみたい人にとっては、入門編として最適な1冊でしょう。

啄木の短歌を読むときのポイント

では、啄木の短歌を読むときのポイントはどこにあるのでしょうか。

それは、本稿でも何度も記しているように、この歌集が「明治43年のある時期に集中して詠まれた作品」を中心に構成されているということです。言い換えれば、啄木が盛岡を歌うとき、渋民村を歌うとき、函館を歌うとき、そしてそうした地で出会った友人たちを歌うとき、それらはみな回想のかたちであらわれているということなのです。

よく知られた「東海の~」や「不来方の~」にあるような過剰にも思える感傷は、それらが回想の風景だということを考慮して読むべきでしょう。

 

また、『一握の砂』は啄木の生活の記録であり、明治末期の文学青年の残した「近代」という時代の記録でもあります。手紙や日記が文学作品として評価されているということは、それだけ啄木が当時の日本社会を詳細に観察し、克明に記録したということにほかなりません。
つまり、啄木の文学を読むカギは、啄木の人生、もっと言えば啄木の生きた時代を知るということにあるのです。

これは学校の授業では限界があるかもしれませんが、啄木の歩んだ道のりを、年表や伝記で追いかけながら、『一握の砂』を読む、なんていうのも趣があっていいのではないでしょうか。

もっと知りたい人へ(参考文献一覧)

『一握の砂・悲しき玩具』石川啄木(新潮文庫)

おそらく現在もっとも手に入りやすい『一握の砂』の完全版です。注目するべきは、編者である金田一京助と、批評家の山本健吉による「解説」が収められている点で、これは一読二読の価値があります。歌集自体は「青空文庫」でも読むことはできますが、啄木を読むなら手元に置いておきたい本ですね。(本記事の引用にも使用しました)

 

『石川くん』枡野浩一(集英社文庫、2007)

啄木の「ダメ人間」ぶりに焦点を当てた爆笑エッセイ集です。借金まみれの啄木がより身近に感じられること間違いなし。枡野さんによる啄木の「現代語訳」が面白いです。

 

『石川啄木(コレクション日本歌人選)』河野優時(笠間書院、2012)

『一握の砂』『悲しき玩具』から歌集未収録の初期作品まで、啄木の秀歌の丁寧な解説とわかりやすい鑑賞が収められています。啄木入門編にピッタリです。

 

『石川啄木』ドナルド・キーン(新潮社、2016)

日本文学研究の大家による、詳細な啄木の伝記本です。ドナルド・キーン氏は2019年に亡くなっており、これは最晩年の傑作といえるでしょう。

 

『石川啄木論』中村稔(青土社、2017)

著者は日本を代表する大詩人です。啄木の伝記としての側面もありますが、作品研究書としても充実しています。内容はやや専門的ですが、啄木ファンなら読んでおきたいです。

 

おわりに

疲れました。ほんとに。

でも、記事を書く前と書いた後では啄木に対する愛着もまったくちがっていて、「心地よい疲れなるかな」と言った彼の気持ちがよくわかります。

「読んでよかった!」と思ってもらえるかどうかはわかりませんが、少なくてもぼくは「書いてよかった!」と思っています(笑)

 

ところで、ぼくが初めて『一握の砂』を読んだのは高校三年生のときでした。盛岡市で行われる「短歌甲子園」に出場するために、日々短歌の練習(?)に明け暮れていた時期です。そう、じつはこの「短歌甲子園」、啄木の名を冠して全国から高校生歌人を集める大会であり、毎年8月、盛岡市を舞台に熱戦がくりひろげられているのです!

啄木の大会なんだから啄木を読まなきゃ! と、単純なぼくは『一握の砂』を図書館で借りて読み、そして「ピンとこないなあ」と思いながら返してしまったのでした(笑)。
まあ、あまりまじめな読者ではなかったのですね。もうちょっと勉強してから出場すればよかったなあと、悔やんでも悔やみきれません。

ということで、「短歌甲子園」に出場する、あるいは興味がある高校生のみなさん、ぜひ啄木を読んで、その人生に思いを馳せながら、悔いの残らないように頑張ってもらいたいと思います。おせっかいながら。この記事も少しは役に立つと思いますので、読んでもらえるとうれしいですね。

ちなみに、「短歌甲子園」はほぼ同時期に宮崎県でも行われます。そちらの大会はなんと「牧水・短歌甲子園」と題されています。あれ、どこかでこの名前を見た気が……そう、啄木臨終の際にその場にいたといわれる、若山牧水のことなのです!

そこで、次回は「若山牧水」についての記事を書きたいと思います。牧水も必ず教科書に登場する重要な歌人なのですが、啄木に比べて一般的な認知度は低いような気もします。テストに出るから覚えなきゃ! ではもったいない、牧水の魅力を伝えられるように頑張りますので、ぜひチェックしてくださいね。

それでは、ここまで読んでいただいて、本当にありがとうございました。

 

この記事を書いた人

貝澤駿一

1992年横浜市生まれ。「かりん」「gekoの会」所属。2010年第5回全国高校生短歌大会(短歌甲子園)出場。2015年、2016年NHK全国短歌大会近藤芳美賞選者賞(馬場あき子選)。2019年第39回かりん賞受賞。

Twitter@y_xy11

note:https://note.com/yushun0905

自選短歌

まっさらなノート ピリオド そこにいるすべての走り出さないメロス

 

教科書に載っている歌人の作品を読んでみようシリーズ

石川啄木『一握の砂』編

若山牧水『海の声』編

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