【連載】宇都宮敦「現代短歌」作品連載を読む!<2>第二宇宙速度

コラム

こんにちは、橋爪志保です。前回に引き続き、雑誌「現代短歌」に連載中の宇都宮敦さんの作品を読んで、鑑賞を行っていきます。

*「0回」として行った宇都宮敦さんの歌集『ピクニック』の短歌についての鑑賞はこちら

*宇都宮敦「現代短歌」作品連載を読む! 第1回はこちら

とはいえ、前回の記事を見ていただくとわかるとおり、評というよりも、感想を自由に言っているだけやないかい、という感じではあるのですが、広い短歌の世界だもん、好きな作品に「好き」って言うだけの文章もあっていいだろ~!ということでお送りしています。今回もお手柔らかにどうぞ。

宇宙、をそのまま読む

今回のタイトルは「第二宇宙速度」。物体が人工惑星(太陽の周りをまわる)になるために、最初にエイヤと地球外へとその物体を放り投げるときの速度、みたいなニュアンスでいいですか。学生時代に物理の定期試験で100点満点中6点をとったことのあるわたしがこんな記事を書いてもいいのだろうか。なんだか怒られそうです(誰に?)。

何はともあれ、このタイトル、深読みしようと思ったらいくらでもできそうです。「物体」が「言葉」で、「太陽」が「きみ」で、「地球」が「ぼく」だとしたら、「第二宇宙速度」は「ぼくの発した言葉がきみのまわりをまわるために必要な力」みたいな解釈ができます。それはそれでけっこうロマンチックなんだけど、でも、

なんかそういうの、野暮ったくない?

個人的には、まわりくどい比喩ではなく、なんとなく言葉の質感をそのまま捉えておきたいところです。また、この連作では「宇宙」という単語が使われている短歌が2首あるけれど、どちらも「宇宙」の漠然とした抽象的なイメージが先行しています。だからむしろ、「第二宇宙速度」なんて言葉知らないよ~くらいで読んだほうが、スッキリした読み味につながるのかもしれません(ここまで書いておいてなんだけれど)。

 

ボーリング場でコーラを飲むいつか宇宙服の似合う女の子/宇都宮敦

 

宇都宮さんの作品は、よく「服」が出てきます。歌集『ピクニック』の冒頭から「ロバの笑うプリント」のTシャツが出てきたり、写真の中の「」が「入院服」だったり、印象的な歌が多いですよね。だからわたしは、ここでの「宇宙服」をその延長線上にあるものとして読みました。「女の子」は、いま目の前で「コーラを飲」んでいて、その時点でもいろいろな服が似合うんだけど、いつか遠い未来で「宇宙服」も着るようになるだろう、という。「宇宙服」という言葉の突拍子もなさにびっくりしてしまう歌ではありますが、大切なのは「似合う」のほうなのではないでしょうか。いろんな服が「似合う」女の子の可能性を言いなすことで、未来でさえもその「女の子」への思いは続いているのだということを言いたい歌なのかと思います。

 

約束みたいに

それでは、気になった歌を一首ずつ読んでいきましょう。 

 

またこんど約束みたいに平べったいホットケーキを食べに行こうよ/宇都宮敦

 主に二種類の読み方ができる歌かと思います。約束みたいに」→「平べったいとかかっている(=「約束」というものはそもそも平べったい形をしている。その「約束」と似た形をしたホットケーキを食べに行こう)とも読めますし、約束みたいに」→「食べに行こうよとかかっている(=平べったいホットケーキを食べに行く約束みたいなのをして、それを実行に移そうよ)とも読めます。

前者の「約束」に形を与える読みを行うと、この歌は新しい感覚を与えるものとして鮮烈に思えます。「約束」という言葉からは、もうちょっと硬くて分厚くてしっかりした形状がイメージされると思うのですが、その先入観をぶっ壊しにかかる。主体の行いたい「約束」はもっとぺったりふわふわしたものなのかもしれません。

後者の読みですと、「みたいに」という表現はなかなか曲者です。〈またこんど約束をして平べったいホットケーキを食べに行こうよ〉ではないわけです。
しっかり待ち合わせなどをして、じゃあこの時間にここで食べようね、といった約束そのものではなくあくまでも「みたいに」なのです。少しずらしにかかっている、というわけなんです。
ここには一種のしっかりした「約束」へのアンチみたいなものが入っているとわたしは考えます。それは、巷では「約束」という名のもとにたくさんの決め事があふれているけれど、それってそんなに強固なものじゃなくない?みたいな疑いの気持ちだったり、もしくは純粋な「約束」への「照れ」なのかもしれません。
それは、書き言葉から離れてくだけた話し言葉を使っているということそのものにも言えることです。書き言葉への疑いや「照れ」が歌から見えるような気もします。

 

「一行」はどこ 「見えた」のはなに

 

スクリーンを横切る一行 一人だけ見えないはずの客席を見た/宇都宮敦

 

映画か何かの場面を詠んだ一首です。人々がぞろぞろ通る映像を、主体は見ています。(「一行」は「いっこう」と読めばいいと思います)でも、その集団の中の一人だけは、こちら側(主体のいる客席)に目線をやった。何気ない瞬間ですが、そのカメラ目線がこちらを見ているような気がしてドキッとする、不思議な感覚があります。歌意はおそらくこんな感じでしょう。
しかし、「スクリーンを横切る一行」という書き方では、スクリーンの前をほんものの人間がずらずらと横切っていくようにも思えて、一瞬「え?」となってしまいます。「一行」と「客」の境目がわからなくなってしまいそうになるという内容が、文体の段階でも実現されていて、おもしろい構造になっている歌です。

 

映画館で半分寝てたら台北でエビを釣ってるあなたが見えた

 

こちらは、「見えた」とは言っているけど、おそらく夢の中のことだと思います。でも、「夢を見ていた」と書くと歌は台無しになってしまいます。なぜなら、それだけで「夢」との距離感が出て、まるで夢なんて見ていないような心地に聞こえてしまうから。ここでは「見えた」がよいのです。
また、「ぐっすり寝てた」だったら、逆にそれは「夢」と書いてしまってもよいのかもしれません。しかし、わたしも経験があるのですが、「半分寝て」るときって、ほんとうに「見えた」としか言いようのない夢かうつつかわからない状況になるんですよね。この「見えた」は「いやいや確信持ってるんじゃねえよ、夢だよそれ!」というツッコミ待ちの表現ともいえるのですが、「半分」の状態を至極適切に表しているともいえます。

 

不思議なムーンウォーク

 

得意げな君のムーンウォーク 得意げなくせにズルしてるってかできてない/宇都宮敦

 

ズルしてるってかできてない」は、下手くそな「ムーンウォーク」をうまく言い得ているように思えます。目の前に景がうかびますよね。「ズル」とか「ってか」とかは、かなりくだけた口語ですが、「ムーンウォーク」しちゃうようなその場の「ノリ」の雰囲気にもよく合っているような気がします。「」にチャーミングな仕草やポーズをとらせてそれに萌えるという歌の作りは、宇都宮さんの作品をいくつも見ていると結構な頻度で出てくるのですが、これもその例だといえるでしょう。
でも、結構な頻度で出てくるにもかかわらずこれらの作り方に飽きがこない(少なくともわたしは)のはなぜでしょう。それはきっと、前も少し言ったように、「君」というものに過剰な具体を持たせていないからだと思うのです。「君」との関係性をしっかり描くとか、「君」の人生が入念に短歌の中に描きこまれていたりすると、読者にも「君」を担う責任感みたいなものが生じるのですが、宇都宮さんの作品では、「君」を手放しで可愛がれるところがあります。その絶妙なバランスは宇都宮作品全体の特徴でもあります。

 

友達がタバコの封をあいかわらずなんだか不思議な感じであけた/宇都宮敦

 

この歌も面白くて好きです。「あいかわらずなんだか不思議な感じ」という表現にはめまいがしそうです。こんなに字数を使っていながら、的確な描写からはあえて遠ざかっているように思えるからです。だって、的確に描くなら、「開け口じゃないところから剥がした」とか「びりびり箱を破った」とか、「見えるように」すると思うのです。しかし、あくまで主観側から、正確にいこうとせずに、たっぷりと余白を設けるような言いぶりで開け方を表現している。この余裕の手つきといいますか、そういった自信みたいなものに、うっとりするのです。

おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は雪の歌の多い冬の連作だったはずなんですが、雪の歌、全然引用してねえ……。連作の歌を全部読みたい方は、「現代短歌」3月号をぜひぜひお読みください。一部の書店または現代短歌社のサイトから購入できます。

次の作品掲載は5月ごろになるそうです。またお会いしましょう!

 

この記事を書いた人

 

橋爪志保

歌人。2013年に作歌を始める。京大短歌を経て、現在は同人誌「羽根と根」所属。その他の参加同人誌に、「鴨川短歌」「はるなつ」「あきふゆ」など。著作に、合同歌集『ベランダでオセロ』。第二回笹井宏之賞にて永井祐賞受賞。
Twitter @rita_hassy47
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