【連載】宇都宮敦「現代短歌」作品連載を読む!<1>ゴースト

コラム

こんにちは、橋爪志保です。

毎月14日発売に発売される雑誌「現代短歌」。その10月号に、宇都宮敦さんの連作「ゴースト」が掲載されました。

3ヶ月に1回、全8回の連載予定ということで、私もそれに合わせて、鑑賞を行っていきたいと思います。

「0回」として行った宇都宮敦さんの歌集『ピクニック』の短歌についての鑑賞はこちら

ひんやりした「ゴースト」

第1回目の24首連作のタイトルは、「ゴースト」。

12首目の「君はふれられる幽霊」というフレーズから持ってこられているようですが、その真意は確定できるものではありません。

」は幽霊のように存在が危うい、と言いたいのかな、とか、わたしもいろいろ考えてみました。しかし、このフレーズからは、主体が「幽霊は一般的にふれられるものではない」と思っていることくらいしかわかりません。

けれど、「ゴースト」というタイトルで連作がまとめられると、歌がすべてひんやりとした手触りに感じられることに気がつきます。まるで常温の保冷剤をむにむにとさわっているように、短歌を味わってみたくなるのです。

この連作にはテンションの高い歌と低い歌、両方ありますが、「ゴースト」というのが、ただのネガティブで暗い印象の単語ではなく、意外とニュートラルな雰囲気も出せる単語であることも気づかせてくれます。

 

会えなくってもって、ほんとう?

 

遠吠え 遠吠え? にこたえる また会える 会えなくってもかならず会えるよ

 

わたしが「ゴースト」を読んで、はじめに思い巡らしたのは、「ほんとうのことを言うこと」についてでした。

 

この短歌では、「遠吠えにこたえる」とは書かれず、「遠吠え?」とわざわざ一度言いなおしがされています。「遠吠え」かどうかはっきりとはわからないけれど、という主体の姿勢が、かなりくだけた口語によって示されているのです。

わたしは初読で「え、この人めんどくさ」と思ってしまいました。「字数を使ってまで、破調までして、言いなおすことなのか?これ」と一瞬の不信感に支配されたのです。「遠吠えにこたえる」ってそのまま書いてもいいじゃん。だって短歌の世界だもん。「遠吠え」かどうかの判断に多少嘘をついても、「文学」の世界では許されるんじゃないのか?????

 

しかし、そのわたしの考えが愚かなものだということに、下の句を読んですぐ気づきました。

会えなくってもかならず会えるよ」というフレーズは、一見矛盾しています。会えるんか会えないんか、はっきりしろ!と言いたくなってもおかしくないような、不思議な話です。けれど、論理が破綻した、もっと言えば論理の先にあるこのなぐさめは、わたしが、いや、全人類が求めていたもっとも深いところにある言葉のひとつなのではないでしょうか。

誰かを死の世界に見送ったり、誰かと縁がなくなったり、別れはさまざまな形でこの世に存在します。会えなくなるということは、日常の中のよくある出来事です。それでいて、どうしようもないことでもあります。

そんな中、このフレーズが光のように灯れば、それは確実に意味のある言葉として命を持つでしょう。

 

上の句の話に戻ります。「遠吠え」であるかどうかわからないということをちゃんと書く、というスタンスは信頼につながるものです。その手間のかかる信頼をなぜ得ようとしたかというと、それはきっと下の句の「かならず」に信頼感を与えるためでもあるのです。会えなくってもかならず会えるのか、そうかそうか、と、こんなにも論理が破綻しているにもかかわらず、わたしはこのフレーズをあっさりと受け入れてしまいました。

 

ただワイルドにへんてこりんなことを言う歌ではなく、非常にしっかりとした駒の置き方を見せてくるような、巧みな歌だと思います。

神様から生活まで

 

光とは タッチパネルでアジふた皿 新幹線からイワシふた皿

 

初句の「光とは」にまず驚きます。まるで神が「光あれ」と言ってのけたかのような、独特のまがまがしさがあります。

ひ、光の定義から入るんすか……宇都宮さん……と思いつつ読み進めると、そこに広がるのはなんと回転寿司チェーンのお店の光景。タッチパネルとは、寿司を注文するために座席に置かれたものでしょう。新幹線とは、回っているふつうの皿とは違い、個人が注文した寿司を乗せて速いスピードでやってくる、新幹線をかたどったあの台のことでしょう。

って……光り物の魚のことだったの!?!?

第一印象が「神」だったのに、中身はずいぶん生活感のある歌です。

でも、寿司の神々しさを演出する「光とは〇タッチパネル~」の〇部分の一字空け、寿司のライトな高揚感を演出する「タッチパネルで~」以降のリズムの良さには、うっとりしてしまいます。

 

火花と愛のゆくえ

 

暗闇で火花を嗅いだ それは愛のようなにおいがしてた していた

 

火花」というものが、どんなものかはわかりません。花火をしていたのかもしれないし、電気がバチッとなったのかもしれないし。

さらに「愛のようなにおい」はもっとわかりませんよね。愛を感じるにおい、ならあるかもしれませんが、愛そのもののにおいがどんなものか訊ねられたら、うーん、と考えこんでしまいます。けれど、「してた していた」という結句に、わたしは、圧倒的に納得してしまいました。

 

先ほど述べた「ほんとうのことを言おうとしている」という話にもつなげると、これも言い換えの形式と捉えることはできるかもしれません。「してた」よりも丁寧に「していた」と言い直すことで、そのフレーズの信頼度を上げている、とみなすことは可能でしょう。

しかし、もしそれだけだったら、「していた」だけ書いてもよくない?と思いませんか。ということは、この二つが両方書かれた理由があるはずです。それを理解するためには、宇都宮さんの短歌をほかにも知る必要があります。例えばこれ。

 

夏刈りの芝生があれば座るっしょ おいで いつでも眠たい人よ

(歌集『ピクニック』より)

 

この歌の「座るっしょ」には、いつ見ても驚かされます。「座るだろう」とかでは全然ダメで、「座るよね」とかでもダメなんです。

 

ここには一般的な口語よりもさらに進んでくだけているしゃべり言葉の導入が見てとれます。あえてしゃべり言葉としたのは、あくまでも「届く」ための言葉を自然な態度で選んだ結果が、これなんだと思います。

自然な会話を短歌の中に含めた歌は他にもあるので、この手法は宇都宮さんの得意技ともいえるでしょう。

要は何が言いたいかというと。

主体はきっと、言い直したほう(=「していた」)だけじゃなくて、「してた」も「していた」も、同じくらい大事にしているんじゃないか、とわたしは仮説を立てたいのです。

そして、そのどちらの表現も尊重するということは、あたらしい口語短歌を作っていくというこれからの挑戦のために、とても重要な価値観だと思っています。

弱さを愛でない力

 

僕だけに聞かせてくれたその声は弱くて弱さゆえに消えない

 

強いから消えない声は、この世にたくさんあります。そりゃあ強いんだもの。弱くて消えてしまう声もたくさんあることと思います。

弱さゆえに消えない」声は、何が弱いのでしょう、声量が小さくてよわよわしいということでしょうか。それとも、弱者の声ということでしょうか。いずれにせよ発せられた相手の声は、弱かったわけです。「消えない」とは、耳からなかなか離れないという状況だとわたしは読みました。

 

わたしがこの歌をすごいなあと思った理由は、「僕だけに聞かせてくれた」特別な声なのにもかかわらず、ただ単に声を愛しむ方向へと、歌を持って行かなかったところにあります。

弱いものに直面したとき、小さなものに直面したとき、人間はそれを愛してしまいがちになります。もちろん愛することは悪いことではないのですが、愛し方の中には、ただかわいがるだけのものも存在します。

しかしこの歌はそういう方向には向かわず、弱さに対してまず、畏怖や尊敬の念があるように感じられます。だからこそ、声は「消えない」のです。

第0回にも書きましたが、宇都宮さんの歌は「君」への感情の品の良さという大きな特長があります。この歌もそれを表す一例です。

 

おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は結構テンションの高めの歌を多く取りあげましたが、他の歌ももちろんすばらしい読み心地です。

「現代短歌」10月号は一部の書店または現代短歌社のサイトから購入できますので、ぜひどうぞ。

それでは、次の作品掲載は3か月後になります。3か月後にまたお会いしましょう!

この記事を書いた人

橋爪志保

歌人。2013年に作歌を始める。京大短歌を経て、現在は同人誌「羽根と根」所属。その他の参加同人誌に、「鴨川短歌」「はるなつ」「あきふゆ」など。著作に、合同歌集『ベランダでオセロ』。
Twitter @rita_hassy47
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