岡本真帆『水上バス浅草行き』はなぜ明るく朗らかで「生活」に満ちているのか

コラム

こんにちは、あとーすです。「蓼食う本の虫」という文芸Webメディアを主宰しています。今回は、最近読んだ『水上バス浅草行き』について考えたことを書かせていただきます。

『水上バス浅草行き』は、「まほぴ」の愛称でも知られる歌人・岡本真帆さんの第一歌集。帯の惹句には、「あの短歌のひと、岡本真帆のはじめての歌集!」とかなり強気な言葉が踊ります。しかし、Twitterでよく見かける「あの短歌のひと」と言われれば、たしかに多くの人が岡本さんのことを思い出すのではないでしょうか。名前を知らなくても、たとえば以下の歌は目にしたことがあるかもしれません。

ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし

さて、僕はこの『水上バス浅草行き』を読み終わった時に、心の底から明るく朗らかな気分になりました。この印象は、一体何によってもたらされているのでしょうか。また、岡本さんの歌には「生活」の実感がこもっているように感じます。その「生活」とは果たしていかなるものなのか。本稿では、主にこの二点について考えていきます。

 

岡本真帆『水上バス浅草行き』はなぜ明るく朗らかで「生活」に満ちているのか

犬と季節と感情のもたらすものーー明るい感じの正体

本歌集において、最も多く登場するモチーフは「犬」でしょう。全268首のうち、「犬」という単語が登場する歌が18首もあります。

犬 朝食 同級生の愛娘 犬 丁寧な暮らし 犬 犬

また、単語が出てこないだけで明らかに犬のことを歌ったものもありますね。

南極に宇宙に渋谷駅前にわたしはきみをひとりにしない

 

「猫」が登場する歌もあるのですが、こちらは2首と「犬」に比べて圧倒的に少ないです。ペットとして馴染みのあるこの2種類の動物に対するイメージの違いは、童謡「雪やこんこ」の歌詞「犬は喜び庭駆け回り 猫はコタツで丸くなる」がよく表しているでしょう。人の性格を動物に喩える場合もありますが、そのときも、犬の方が活動的で人懐っこく、猫の方はゆったりとした所作で気まぐれというような印象があります。次の歌は、犬の活動的な様子が如実に表れている一首です。

犬だけがただうれしそう脱走の果てに疲れた家族を前に

まずうれしそうな犬が飛び込んできて、その後に疲れた家族が映り込むことでコントラストが生まれ、よりうれしそうな感じが強調されている。そして疲れ切っている家族も、犬を追いかけて「やれやれ」といった具合で、疲れの中にうれしさを潜ませているのではないでしょうか。

 

犬の次に注目したいのは季節にまつわる語彙で、「春」が出てくる歌も「夏」が出てくる歌も、ともに9首ずつあります。

フライングしないことだけ考えろ位置に着いたら順に春風

平日の明るいうちから飲むビール ごらんよビールこれが夏だよ

一方で、「秋」「冬」が出てくる歌はそれぞれ4首ずつです。暖かい・暑い季節について詠んだ歌が多いというのも、この歌集の方向性を決定づけているでしょう。さらに、「花火」が登場する歌は6首、「花」が登場する歌(「花火」を含むものを除く)にいたっては18首あります。印象としては「犬」の方が目立ちますが、実は「花」も本歌集の通奏低音となっているのです。

まぼろしのマトリョーシカを開け放ちあなたと会った日の花ふぶき

 

感情表現にも注目してみましょう。本歌集の中には、「泣」を含む歌が3首、「涙」を含む歌が1首あります。それに対して、「笑」を含む歌は11首。圧倒的に笑っているシーンを切り取っている場合が多いです。

泣きたくない、鼻詰まるから その声がもう鼻声で笑ってしまう

「泣」いている歌は3首しかないのに、そのうちの1首ですら笑ってしまっています。切ない歌も悲しい歌もいくつもあるけれど、犬、春、夏、笑い、そういったモチーフたちによって、読了後にはやはり朗らかで明るい気持ちに包まれる。『水上バス浅草行き』は、そのような構造を持っているのです。

 

「生活」とは何かーー二項対立とアナロジーを通して

僕の中で『水上バス浅草行き』に「生活」という印象が生まれたのは、ちどりさんによる以下のツイートがきっかけでした。

 

 

岡本さんとも親交の深い歌人・上坂あゆ美さんの第一歌集『老人ホームで死ぬほどモテたい』との比較。ここで、「人生」と「生活」の二項対立が登場します。『老人ホームで死ぬほどモテたい』の中から、最も「人生っぽい」と思った1首を引きます。

「離婚したら名字どっちになるのがいい?」走るボルボの灰皿あふれる

「離婚」はまさに「人生」の一大イベント。そして、それも自分が主体的に行う離婚ではなくて、両親の離婚に客体的に巻き込まれてしまっている、というのがさらに「人生」感を際立たせているように思います。

と言われても、何が「人生」で何が「生活」なのかよく分かりませんよね。ここでは、この2つの言葉の意味を定義するというようなことはしません。また、今回は『水上バス浅草行き』の評なので、「生活」の意味を考えることに重きを置きましょう。そのための作業としてこれから、「人生/生活」に対応するような二項対立をアナロジーとして示したいと思います。

 

まず最初に考えたいのが、「現実/夢」です。本歌集には、「夢」を扱った歌がいくつか散りばめられています。最初に出てくるのは3首目。

夢くらいうまく話がしたいのに分け入っても分け入っても向日葵

 

「夢」の歌はぜんぶで6首あり、なんと最後も「夢」に関する歌です。

夢じゃないよねってうれしくなって聞く きみは夢でもうそがへただね

「うれしくなって」いるこの世界について「きみ」に尋ねてみる。すると、どうやらこの世界は「夢」だということが分かる。この歌の射程は、実は『水上バス浅草行き』全体に及んでいるのではないでしょうか。本歌集で歌われている明るい世界は、実はぜんぶ夢みたいなものだったのかもしれない。そう思いながら改めて頭からページをめくってみると、ところどころに「現実」的な歌も顔を覗かせていることがわかります。

働いて眠って起きて働いて擦り減るここは安全な場所

この一首だけを見ると、なんだかぜんぜん朗らかじゃなくて、「擦り減る」に胸がきゅっと苦しくなります。「ここ」とは一体どこなのでしょうか。最初に読んだときは、「擦り減る」場所とは別に「安全な場所」があるのだと考えていたのですが、もしかすると、「擦り減る」場所こそが「安全な場所」なのかもしれません。つらくて悲しいけれど、でも地に足がついていて、だから安全ではある。でもそれだけじゃ生きている甲斐がないから、「ここ」ではない場所=夢の世界 へと彷徨い出てしまうのではないでしょうか。

次の歌も、「現実」が色濃く出ています。

口笛も花もだじゃれも潮騒も全部忘れて書いた履歴書

太宰治『人間失格』の中で、大庭葉蔵は様々な名詞を「喜劇名詞」と「悲劇名詞」に振り分けていきます。それに倣って、上記の歌の名詞「人生・現実」と「生活・夢」に振り分けていくならば、「口笛」も「花」も「だじゃれ」も「潮騒」も後者だけれど、「履歴書」だけは前者です。この対立は、おそらく「労働/余暇」とも言い換えられるでしょう。

これら二項対立たちの中に、僕は「自動化/異化」というものが加えられるのではないかと考えています。「異化」とは、ソ連の文芸評論家ヴィクトル・シクロフスキーが用いた用語で、「言葉(形式)をもみくちゃにすること※1、「普通でありきたりな表現を、あえて難解な表現にしたり、もってまわった言い回しにしたりすることで、知覚のプロセスを長引かせる技術=手法※2などと説明されます。「自動化」された言葉から意識的に逸脱することで、文学的、詩的、芸術的にあろうと試みるのですね。「異化」しようと試みた言葉がすべて文学的になるとは限りませんが、一旦「自動化/異化」という二項対立を拝借してみましょう。

※1:野中進「ロシア・フォルマリズム」『現代批評理論のすべて』(2006年 新書館 p.18)
※2:T・イーグルトン著/大橋洋一訳『新板 文学とは何か』(1997年 岩波書店 pp.6-7)

すると、生きている時間の大半は、おそらく「自動化」された行動に費やされているはずです。それを象徴するのは、やはり「労働」でしょう。生きのびるために、効率化して仕事を淡々とこなす。しかしそれだけではつらくて苦しいから、時には「異化」することが必要になってくる。「余暇」を得て「夢」の中で遊ぶことが必要になってくる。そういった試みが「生活」と呼んでいるものの正体なのではないか。僕はそう思うのです。

まとめ

生活とは、自動化された人生を異化する試みである。僕は『水上バス浅草行き』を読むことを通して、そのような考えを持つようになりました。ちょっとこれから、通ったことのない道を通りながら、散歩でもしてみようかなと思います。

この記事を書いた人

あとーす

文芸Webメディア「蓼食う本の虫」主宰。普段は小説について考えていることが多いですが、短歌のこともたまに考えます。

蓼食う本の虫

Twitter:@atohsaaa

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