教科書に載っている歌人の作品を読んでみよう~北原白秋『桐の花』編

コラム

みなさんこんにちは。TANKANESSライターの貝澤駿一です。

東京では緊急事態宣言の延長が決まり(※2021年3月現在)、今年の春もお家で過ごす時間が増えるなあ、読書がはかどるなあとしみじみ思います。

この「教科書に載っている歌人の作品を読んでみよう」シリーズもまた、長い長いステイホームの産物です。「国語の教科書に載っている歌人」の作品の魅力を、みなさんに知ってもらうための連載です。第1回は石川啄木、第2回は若山牧水を取り上げてきました。久しぶりのシリーズ第3弾をお届けします。

今回取り上げる作品は、北原白秋(1885-1942)の第一歌集『桐の花』です。

白秋は歌人としてだけではなく、近代日本を代表するロマン派詩人として、あるいは現在まで歌い継がれている数多くの童謡や唱歌の作者として、誰もが一度はその名を聞いたことがある人物ですね。

白秋はもともと裕福な造り酒屋の子どもとして生まれ、幼少期は恵まれた生活を送っていましたが、文学を志したことによって貧困・女性関係・家族関係などの多くの困難に苦しむようになりました。一方で、どんな困難にあっても旺盛な文学活動は途絶えることがなく、様々なジャンルにおいて名作を残し、生涯を筆一本で乗り切ってきた筋金入りの文学者でもありました。

今回は、白秋の波乱万丈の人生を振り返りつつ、しばしば「国民詩人」とも称されるその作品の魅力に触れていきたいと思います。

*本文中の歌集『桐の花』の引用に際しては青空文庫を使用させていただきました。

 

それでは、まずは白秋の生涯を簡単にまとめていきましょう。

白秋ってどんな人?

 

水の都に生まれた、西洋にあこがれるロマンチスト

白秋の作品はしばしば「難解である」と言われます。初期の白秋は、言葉と言葉がモザイクのように複雑にからまりあって、フランスの象徴詩のような独特の詩情や美しさを持つ作品が大きな魅力です。それゆえに、とっつきにくい印象があるのもまた事実でしょう。

 

そんな白秋の教科書に載っている名作と言えば、この作品を一番に思い浮かべます。

 

草わかば色鉛筆の赤きの散るがいとしく寝て削るなり

若草の鮮やかな緑と、色鉛筆のどこか人工的な赤の対比を、白秋は「いとしく」と表現しています。豊かなその色彩感覚を愛でるように、寝っ転がって鉛筆を削っている詩人の姿を想像すると、どこか浮世離れしているような印象を受けますね。純粋に言葉だけで切り取られた美しさと言ってもいいかもしれません。

この歌も第一歌集『桐の花』に収められた作品ですが、同じ時期の啄木の素直さ、牧水の若さとはまた少し違う、芸術性の高さが印象的です。

 

北原白秋(本名・隆吉)は、明治18年(1885)に福岡県の柳河(現・柳川市)の裕福な造り酒屋の長男として生まれました。柳河は町全体が水路によって結ばれている「水の都」であり、その水で仕込まれる酒や近海でとれる海産物を扱う問屋として、北原家は隆盛を極めていました。

白秋は地元の名門である県立伝習館中学(現・福岡県立伝習館高校)へ進学後、与謝野鉄幹・晶子夫妻の『明星』に傾倒し、きらびやかなロマン派や象徴主義、そして西洋へのあこがれを強めていきます(『一握の砂』の石川啄木も、もとは明星の影響を受けていました)。

裕福だった北原家には高価な西洋の書物も数多く保管されており、白秋はそうした叢書を耽読しながら、美しい水の都で着々と文学の素養を高めていきました。

 

そんな恵まれた少年期を過ごした白秋ですが、明治34年(1901)、十六歳の年にその運命は一変することになります。美しい故郷・柳河が大火に襲われ、北原家は貯蔵する数千石の酒と酒蔵を失ってしまったのです。この大火のあと、北原家は徐々に没落し、白秋が第一詩集『邪宗門』を出版する明治42年(1909)に破産してしまいます。

白秋は生涯一度も定職を持たず、専業の詩人・歌人として原稿料を頼りに生活していましたが、それには少なからずこの大火による家業の没落が影響していたのでしょう。

 

詩人としての成功~『思ひ出』発表まで

悪夢の大火から四年後、明治37年(1904)に白秋は東京の早稲田大学英文科予科に進学し、そこで当時頭角を現しつつあった新進気鋭の歌人・若山牧水と知り合います。

宮崎出身の牧水とは、同じ九州人のよしみで何かとウマが合い、二人は切磋琢磨しつつともに文学活動に励んでいきます。医者の息子である牧水の実家もそれなりに裕福ではありましたが、はるかに世間知らずでお坊ちゃんだった白秋の金銭感覚にはついていけない部分もあったようで、白秋が洋書をたくさん買い込むのを見て牧水が驚いた、などというほほえましいエピソードも残っています。

 

この当時、白秋は雅号を「射水」と名乗っていました。水の都・柳河から逃げるようにして上京した白秋でしたが、「射水」という号には大火に敗れて捨ててきた故郷への複雑な思いも感じられます。一方で、柳河にはなかったガス灯や噴水、きらびやかな電車のイルミネーションなど、白秋は東京のもつその明るさに魅了され、そうした絢爛さへのあこがれがこの繊細な少年を都市的でロマンチックな詩人へと歩ませていったのです。

 

このころ、白秋は「新詩社」に参加し、与謝野鉄幹・晶子夫妻や石川啄木といった文人たちと交流します。与謝野夫妻は白秋の才能を買い、『明星』に掲載された初期の詩作品は蒲原有明(1875-1952)、上田敏(1874-1916)など当時のトップ詩人にも注目されました。その後新詩社を脱退、歌人の木下杢太郎(1885-1945)や吉井勇(1886-1960)、画家でのちに義理の弟となる山本鼎(1882-1946)らと、ロマン主義的運動である「パンの会」に参加し、耽美的な傾向をさらに深めていきました。

 

明治42年(1909)、第一詩集『邪宗門』を発表すると、その徹底した異国趣味と唯美的・耽美的な世界観が評価され、白秋は一躍詩壇の寵児となりました。続いて明治44年(1911)には、第二詩集『思ひ出』を発表します。『思ひ出』は没落した柳河の実家に寄せる複雑な思いや憧憬が現れた作品でも注目され、このころまでに白秋の詩壇的地位はゆるぎないものになっていったのです。

 

桐の花事件

人気詩人となった白秋を待っていたのは、隣人である松下俊子とのスキャンダルでした。

名家育ちのお坊ちゃんで筋金入りの世間知らずだった白秋が恋に落ちたのは、こともあろうに隣家に暮らす別居中の美しい人妻だったのです。俊子の夫・松下長平によって告訴された白秋は、姦通罪の罪で服役し、トップ詩人から犯罪者へと転落してしまいます。東京に呼び寄せていた弟・鐵雄らの尽力もあり、2週間ほどで保釈となりましたが、この昼ドラのようなスキャンダルをきっかけに、頂点まで達していた白秋の人気は一気に地に落ちてしまいます。(のちに出版される白秋の第一歌集にちなみ、この事件を一般に「桐の花事件」と呼んでいます)

 

獄中で詠んだ歌も収められた『桐の花』は、大正3年(1913)1月に出版され、西洋風の抒情とのびやかな青春が一体化した特徴ある歌風で注目されました。白秋は俊子と結婚し、東京を離れ神奈川県の三崎(現・三浦市)へと移り住みます。

翌年には肺結核で療養が必要な俊子を伴い、小笠原諸島・父島へ渡りますが、あまりにも価値観が異なる島の暮らしに耐え切れず、短期間で本土に戻ってしまいます。白秋は俊子と別れ、大正5年(1915)に二番目の妻・江口章子と結婚します。その後、弟・鐵雄とともに出版社の事業を始めたり、詩集や歌集を次々に出版したりと奔走しますが、金にはいつも困っており一家は苦しい生活を強いられました。

 

小田原移住~二度目のスキャンダル

大正7年(1918)、白秋は章子とともに神奈川県の小田原に転居し、そこで児童向けの童謡や詩作に取り組みます。児童文学雑誌の先駆者である『赤い鳥』の編集者、鈴木三重吉(1882-1936)の勧めでこの仕事を始めた白秋は、小田原の借地に「木莬(みみずく)の家」という住居を立て、そこで地元の子供たちとも交流しながら数々の傑作を発表します。「桐の花」事件以降の人気の失墜を回復したかに見えた白秋でしたが、そこにふたたび夫婦関係のスキャンダルが舞い込みます。

二番目の妻・江口章子は派手好きな性格で、もともとお坊ちゃん気質の白秋とともに浪費癖を指摘されていました。実直な経営者であった弟・鐵雄ら白秋を金銭的に支えてきた人たちは、章子に反発し彼女を一方的に非難していたのです。ある夜、パーティに大勢の芸者を招いて乱痴気騒ぎをくりひろげた章子は行方をくらまし、それがきっかけで白秋は離婚を決意します。順調かに見えた小田原生活でしたが、またしても白秋は醜聞で世間をにぎわすことになったのです。

大正10年(1921)、白秋は佐藤菊子と結婚し、翌年長男・隆太郎が誕生します。この三番目の妻・菊子が白秋生涯の伴侶となりますが、この時期に白秋はもうひとりの重要なパートナーを得ることになります。日本で初めて交響曲を作曲したともいわれる、作曲家の山田耕筰(1886-1965)です。

白秋と耕筰は最先端の詩と音楽でタッグを組み、「からたちの花」「この道」「まちぼうけ」などの童謡の傑作を数多く世に送り出すことになります。しかし、大正12年(1923)には関東大震災で小田原の住居や鐵雄の出版社「アルス」が壊滅的な被害を受け、またも白秋は挫折を味わうことになったのです。

小田原時代の白秋は、このように波乱万丈をくりひろげながらも、子供のための詩作という新たなフィールドを得たことでより詩人として花開き、旺盛な文学活動を行いました。白秋もっとも円熟の時代と言っていいでしょう。白秋・耕筰コンビの童謡はいまでも子供たちによって学校などで歌われますし、イギリスの童謡詩である『まざあ・ぐうす』を翻訳して出版したことも見逃せません。

現在、小田原市の小田原文学館の敷地内には「白秋童謡館」が建てられています。近代文学者が集まる町と言えば、同じ神奈川県でも鎌倉のほうが有名ですが、このころの小田原もまた、白秋を中心に多くの文学者にゆかりのある「文士たちの町」であったのです。

 

晩年の「国民詩人」白秋

引っ越しの多い白秋は、大正15年(1926)には震災の影響が少なかった谷中(現・台東区)に転居します。昭和3年(1929)の世界恐慌、昭和5年(1931)の満州事変と次第に不穏な影がちらつく中、白秋は新しい歌誌『多磨』を創刊(1935)するなど詩歌への情熱を失わずに理想を追い求め続けます。しかし、そんな白秋を今度は恐ろしい病魔が襲います。

日中戦争がついに勃発した昭和12年(1937年)、白秋は腎臓病と糖尿病の合併症による眼底出血を起こし、両目の視力をほとんど失ってしまいます。病床の白秋の作品は、次第に国家主義に接近するようになりますが、それは「国民詩人」としてはもはや抗えない運命でもあったのでしょう。白秋は戦争の終結を見ることなく、昭和17年(1942年)11月2日、激しい戦禍の中で息を引き取り、ペンだけを握り続けたその生涯を終えました。

「国民詩人」と目された白秋は、戦時中国民の「士気の高揚」のための詩を依頼され、戦争を賛美するような作品を多く残しています。しかし、本来の意味での「国民詩人」としての栄誉もいまだ消えることはありません。小さな子供がたどたどしくものびやかに白秋の童謡を歌っている、日本中でいまも見られるその風景がそれを端的に物語っているのです。

 

歌集『桐の花』について

『桐の花』は大正3年(1913)、白秋29歳の時に発表された第一歌集です。俊子との姦通罪で告訴され、囚人として収監された経験も踏まえつつ、先行する二冊の詩集で確立したロマン主義的傾向をさらに深めた意欲作と考えられます。スキャンダルで転落した地位を取り戻すため、あえて短歌によって勝負に出たという側面もあるでしょう。初期白秋の文学世界は、この『桐の花』の発表によって一応の完結を見ることになります。

序文には「Tonka John」という署名のもと、以下のような一節が記されています。白秋がこの歌集をどう位置付けてきたのかが端的にわかる名文です。

はらからよわが友よ忘れえぬ人びとよ/凡てこれわかき日のいとほしき夢のきれはし

「Tonka」とは「Tanka」の綴り間違いではなく、白秋の故郷・柳河の言葉で「大きい」という意味、また「John」は英語の「ジョン」ではなくこれも柳河語で「おりこうさん」や「お坊ちゃん」のことを指します。つまり、「Tonka John」は「大きなお坊ちゃん」、柳河を代表する名家の長男であった白秋自身を指しているのです。

歌はみな「わかき日のいとほしきゆめのきれはし」であり、「Tonka John」であった自分の青春の記録である、つまり『桐の花』は白秋の最初で最後の青春歌集として読むことができます。「Tonka John」というフレーズは、先行する詩集である『思ひ出』にもしばしば登場しますが、白秋がこれらの詩集や歌集を「わかき日」の総決算として世に出したことがうかがえます。

また、「忘れえぬ人びとよ」という呼びかけには、自らの儚い青春を綴った一連に「忘れがたき人人」という章題をつけていた、あの石川啄木の精神も感じられます。

 

一方、<囚人Tonka Johnは既に傷つきたる心の旅人なり>と、白秋は歌集の最後に記しています。囚人というレッテルを貼られたその瞬間に、夢見がちなTonka Johnは死を迎えたのです。そういう意味では、『桐の花』はある詩人の誕生から死までを象徴的に描いた作品だといえば少し大げさすぎるでしょうか。

 

『桐の花』を読む

 

春の鳥な泣きそ泣きそあかあかとの草に日の入る夕

『桐の花』の巻頭歌として有名な作品であると同時に、白秋という歌人がいかにことばをイメージとして巧みに使っているかがわかる作品です。

「春の鳥泣きそ泣き」の「な~そ」は高校の古典でおなじみの「~してくれるな」という禁止の表現

主体はどこか屋内にいて、草木を染める夕焼けを見ながら春の鳥に「鳴いてくれるな」と呼び掛けている。細かく見るとどのような状況かがわかりにくいところもあります(鳥はすでに鳴いているのか? 鳴いているとすれば、それはどのようなものなのか? 春の鳥とは具体的に何を指しているのか?)。耳になじんで忘れがたい前半のリズムと、歌全体を包む静謐な抒情にうっとりとしてしまいます。

『桐の花』には、そして夕陽といったモチーフが頻繁に登場しますが、この歌はそれらをすべて網羅したうえで、鮮烈な視覚的・聴覚的イメージを呼び起こします。全体としてあるひとつの空気感に支配された作品で、逆に言えばそれだけを読み取れればいいというつくりにも見えますね。白秋のエッセンスが凝縮された一首といえるでしょう。

 

ああ笛鳴る思ひいづるはパノラマの巴里パリスの空の春の夜の月

柳河の裕福な商家に生まれ育った白秋は、幼いころから祖父が所蔵するたくさんの書物に囲まれてきました。多感な少年がそれらの本を読んで、異国へのあこがれを募らせたのは想像に難くありません。「パノラマの巴里」など見たこともない白秋ですが、ふっと聞こえた笛の柔らかく懐かしい響きに絢爛な巴里の風景をイメージしたのです。むろん、そこにあるのは明治も後期を迎え、文明の開化に浮かれ騒ぐ東京という小さな町の春の夜の月でした。

 

白秋が上京した明治37年(1904)には、美しい故郷・柳河は大火によってほぼ失われた町となっていました。そんな故郷から逃げるように上京した白秋にとって、東京という町はあまりにまぶしく映ったことでしょう。ところが白秋の思いは「パノラマの東京」を飛び越え、「パノラマの巴里」へと飛躍していきます。この詩的飛躍の大胆さによって、読者は白秋の壮大なイメージの世界へといざなわれていくのです。

 

ウイスキーの強くかなしき口あたりそれにもして春の暮れゆく

ウイスキーは明治以降に日本に入ってきた洋酒のひとつですが、『桐の花』出版当時は今のように一般的に広く飲まれる酒ではありませんでした。サントリーの創業者・鳥井信治郎が山崎に国内初の蒸留所を建てるのが1923年、国産初のウイスキーである「白札」を完成させるのが1929年、現在まで続くロングセラー商品の「角瓶」が発売されるのが1937年ですから、白秋のウイスキーの歌がいかに時代を先取りしていたのかがわかります。

スコッチ・ウイスキー独特の煙くささは明治・大正時代の日本人の口に合うものではありませんでしたが、西洋趣味にかぶれた白秋はそれを「強くかなしき口当たり」と表現します。重要なのは結句でまたも夕焼けのイメージを出してきているところです。ウイスキーの輝くような琥珀色とそれに宿る悲しさ、それにもまして春の夕焼けはもの悲しく映るのだと。味覚、嗅覚、そして視覚と五感をふんだんに使った白秋らしい一首だといえます。

白秋による洋酒の歌としては、<かなしげに春の小鳥も啼き過ぎぬ赤きセエリーを君と鳴らさむ>も有名です。「セエリー」はスペインの酒精強化ワインの一種である「シェリー」のことでしょう。こうした嗜好品に心を躍らせ、すぐに歌にしてしまうところ(しかも、お得意の鳥や春のイメージを添えて)は、まさに明治期の青年たちのハイカラな青春を物語っています。

やや手癖に頼っているという見方もできると思いますが、新しいものやめずらしいものに対して子どものように好奇心旺盛な白秋がとても微笑ましく思えます。

 

枇杷の実をかろくおとせば吾弟わおとらが麦藁帽にうけてけるかな

幼いきょうだいが楽しげに遊んでいる夏の風景が想起されます。

白秋には鐡雄・義雄・家子という三人のきょうだいがいました。鐡雄は実務に長けた人物で、出版業を生業とし生涯にわたって白秋の創作活動のサポートを行い、義雄は『アトリエ』という美術雑誌を創刊し評論家として活躍しました。一方、家子はのちに「パンの会」の同志であった山本鼎の妻となり、鼎の芸術活動を支えました(つまり、白秋と鼎は義理の兄弟の関係にあります。数々の童謡を世に送り出し「唱歌教育の父」という側面もある白秋と、「自由画教育」で日本の美術教育の基礎を築いた鼎に姻戚関係があるのは何とも趣深いですね)。

 

北原家の子どもたちは仲の良いきょうだいだったのでしょう。幼少期の鮮明な思い出が、「~かな」という高らかな詠嘆によって、あたかも眼前によみがえってきたかのようです。

子どもの無垢を無条件で礼賛するようなロマン派詩人の趣が、この一首からは見て取れます。牧歌的なその風景の中に無垢なる美しさを見出していくその姿は、子どもの目でものを見る童謡詩人となった後年の白秋を暗示しているようにも思えます。

一方、「回想をうたう」ことは常に「現実をうたう」ことと表裏一体であり、のちに時局という要請が白秋を国家主義的な詩人に変えてしまった事実があることも覚えておくべきでしょう。

 

病める子はハモニカを吹き夜に入りぬもろこしばたの黄なる月の出

病気の子どもがひとりでハモニカを吹いている。その悲しげな音色にいざなわれるように夜はやってきて、小さなその子どもを飲み込んでいく。背景には黄色いもろこし畑がひろがっていて、は子どもを照らすスポットライトのように輝いている…。

「な鳴きそ鳴きそ」の歌のように具体的な状況は確定できないところがありますが、むしろ自由に想像を膨らませて鑑賞できるところにこの歌の良さがあるといえるでしょう。「もろこし」とはトウモロコシのことではなく、キビやヒエのようなイネ科の植物のこを指します。稲穂のようなもろこしがハモニカの音色に合わせて揺れている様子をイメージすると、ゴッホの「ひまわり」やモネの「積みわら」のような鮮烈な黄色の風景も浮かんでくるでしょう。

 

白秋には、気に入ったモチーフを何度も使いまわす傾向があり、この「笛を吹く子ども」というモチーフも、<ほそぼそと出臍でべそ小児こども笛を吹く紫蘇の畑の春のゆふぐれ>という歌で再び登場します。「病める子」の孤独感に対して「出臍の小児」からは無垢な子どものエネルギーが伝わってきて、より楽しい歌に仕上がっています。

 

かはたれのロウデンバツハ芥子の花ほのかに過ぎし夏はなつかし

字面からはわかりにくいですが、これは故郷である柳河をしのんだ歌のひとつです。大火により廃れてしまった柳河を、「廃墟」として美しく捉えなおそうとしています。

「廃墟・柳河」というイメージは、19世紀のベルギーの詩人ジョルジュ・ローデンバッハ(1855-1898 ※現在では普通「ローデンバック」と表記します)の傑作『死都ブリュージュ』に由来します。白秋は上田敏訳を通じてローデンバッハを読んでいたのでしょう。死を内在するものとして主人公的にふるまうブリュージュという都市に、白秋はかつて美しかった柳河の町を重ねています。逃げるように故郷を去った白秋にとって、柳河を歌うことは自らの胸の内と向き合うことでもありました。

薄暮たそがれの水路に似たる心ありやはらかき夢のひとりながるる>や<廃れたる園に踏みいりたんぽぽの白きを踏めば春たけにける>といった歌では、水の都としての柳河や廃都としての柳河を、お得意の夢や植物、春のイメージに重ね合わせています。ローデンバッハを通じて、そのなかに死を湛えた柳河の美しさは再発見され、白秋は捨てたはずの故郷に回帰していったのです。

 

クリスチナ・ロセチが頭巾かぶせまし秋のはじめの母の横顔

ローデンバッハに続き、またしても19世紀の詩人の名が登場します。

クリスチナ・ロセチは現在ではクリスティーナ・ロセッティ(1830-1894)と表記されるイギリスの詩人です。芸術をラファエル以前の象徴主義に戻そうという「ラファエル前派」に属し、また女性としての人道的な観点から、奴隷制度や差別主義に強く反対した人物でもありました。というわけで、ロセッティの名前から「母の横顔」を想起するのはそれほど難しくはありません。白秋はロセッティの造形に聖母マリア的な憧憬や、自らの愛する母、聡明な妹といったイメージを見ています。

二度の女性スキャンダルがどうしてもクローズアップされてしまう白秋ですが、この歌からは白秋が女性に対して抱いている素朴で無垢な感情も読み取ることができるでしょう。

ロセッティの作品として日本でもっともよく知られているのは、彼女がまとめたイギリスの児童詩、つまりマザーグースの全集である「Sing-Song: a Nursery Rhyme Book」(1872)です。白秋がのちに童謡詩人となり、マザーグースを翻訳して出版する伏線はこんなところにもあったのです。

 

かなしきは人間のみち牢獄ひとやみち馬車の軋みてゆく礫道こいしみち

「桐の花」事件での投獄により、白秋は生まれて初めて〈犯罪者〉というレッテルを貼られ、周囲の好奇の目にさらされることになります。柳川の名家に生まれ、何ひとつ不自由なく育てられてきた世間知らずな〈詩人〉としてのアイデンティティは失われ、平場の〈人間〉、いや、それ以下の価値かもしれない自分という存在に気付かされたのです。どことなく、哀しい童謡の「ドナドナ」のような雰囲気も感じ取れる歌ですが、馬車に乗せられて運ばれているのは家畜ではなく、芸術家としてついさっきまで富も名声も得ていた自分。

くりかえされる〈みち〉というリフレインからは、こんなときでさえ詩的に儚いことばを紡ごうとする、詩人の意地のようなものを感じます。

 

しかし、白秋の短い牢獄生活は、この生まれながらの芸術家に、〈人間〉のもっとも〈人間〉くさい部分を教えた貴重な経験だったともいえます。軽蔑されるべき罪を犯した〈人間〉たちと同一視され、機械的な番号で呼ばれたという屈辱が、その後の創作に与えた影響はあまりにも大きかったのです。

白秋は<鳳仙花よ監獄ひとやにも馴れ罪にも馴れ囚人にさへも馴れむとするか>と歌っています。罪を犯した自分、囚人である自分、監獄にいる自分が徐々に状況的なものではなく肉体的なものになり、鳳仙花の赤を通じて新たな自己像へと結託していくのです。それと同時に、<監獄ひとやにも鳳仙花咲けりいと紅しとこの弟に言ひ告げやらむ>と歌うとき、そこにはロマンチストで浮世離れした都市生活者の立場からは見えなかった、しかし独房にいるこの今だからこそとどまらなくなった〈弟〉への〈情〉という、白秋のもっとも〈人間〉的な部分を、確かに認めることができるのです。

 

おわりに

白秋が稀代の文学者として日本文学史に残した功績はあまりにも大きく、一生かけても語りきることはできないくらいでしょう。「歌人」や「詩人」の範疇にすらとどまらないのですから、教科書のたった数行で終わらせるべきではないことは明らかなのですが、残念ながら中学でも高校でもそこまで本格的に勉強するわけではないのですね。僕自身も、今回の記事の執筆で新たに学んだことは数えきれないくらいありました。

ですが、白秋がのこしたことばの数々は、僕たちの日常生活にも深く根ざしているものがとても多いのです。それほど注意深く探さなくても、白秋のことばはいまも日本人にある共通のなつかしさを呼び起こすものとして、そこらじゅうにあふれています。美しいことばに触れたくなったとき、人は何度でも白秋に帰るのかもしれない、そんなことを思いました。

さて、ここまで読んできておやっと思った読者の方もいるでしょう。「教科書で読む」白秋の短歌といえば、あの歌について解説されていないのではないかと。

君かへす朝の舗石しきいしさくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

 

僕としては、この歌の解釈だけはみなさんの自由な想像にゆだねておきたいのです。もちろん、僕の中である程度の〈答え〉はあります。しかし、〈答え〉は必ずしも短歌作品の絶対的な〈読み〉ではありません。この歌の解釈を求めてこの記事にたどり着いた方には申し訳ありませんが、短歌作品を自由に読む楽しさは、やはり奪ってはいけないですからね。

 

それでは、ここまで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございました。下に参考文献を記載しておきますので、この記事を読んで白秋についてもっと知りたくなった!という方はぜひ読んでみてください。

 

もっと知りたい方へ(参考文献一覧)

高野公彦『北原白秋の百首』(コスモス叢書、2018)

「コスモス」所属の現代歌壇を代表する歌人、高野公彦さんによる白秋の名歌百首の鑑賞を楽しむことができます。最初の一冊にお勧めです。

 

今野信二『北原白秋-言葉の魔術師』(岩波新書、2017)

おそらく現在最も手に入りやすい白秋の概説本です。新書ですが内容はかなり専門的な部分もあり、国語便覧をお持ちの方は照らし合わせながら読むといいでしょう。

 

川本三郎『白秋望景』(新書館、2012)

伊藤整文学賞受賞の、本格的な白秋評です。白秋論にとどまらない優れた文学研究でもあります。近代文学を学びたければ一読二読の価値があります。

 

國生雅子『北原白秋(コレクション日本歌人選)』(笠間書院、2011)
「コレクション日本歌人」シリーズはどの歌人のものも入門にはぴったりです。鑑賞では白秋のほかの詩形の作品からの引用も多く、いかに白秋が多才であったかをうかがわせます。

 

北原東代『沈黙する白秋-地鎮祭事件の真相』(春秋社、2004)
著者は白秋の長男、北原隆太郎の妻であり、北原家に残った膨大な資料から小田原時代の白秋・章子の離縁の真相を読み解きます。白秋を取り巻く人物たちにも興味があるという方はぜひ。

 

このほかにも、白秋の歌集・詩集・散文集などは図書館などで広く読むことができます。子ども向けのものもあるので気軽に手に取ってページをぱらぱらとめくるだけでもいいと思います。ぜひ、気になったものから読んでみてください。

 

この記事を書いた人

貝澤駿一

1992年横浜市生まれ。「かりん」「gekoの会」所属。2010年第5回全国高校生短歌大会(短歌甲子園)出場。2015年、2016年NHK全国短歌大会近藤芳美賞選者賞(馬場あき子選)。2019年第39回かりん賞受賞。

Twitter@y_xy11

note:https://note.com/yushun0905

自選短歌

まっさらなノート ピリオド そこにいるすべての走り出さないメロス

 

「教科書に載っている歌人の作品を読んでみよう」シリーズ バックナンバー

第1回 石川啄木『一握の砂』編~

 

第2回 若山牧水『海の声』編

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