私は山深い土地に暮らしています。
位置の目安としては…大阪から高速バスで3時間ほど。
のどかな土地です。
その町で、喫茶、書店を営みながら、寺子屋をしています。
店舗ではイベントも行っています。また、月に一度、岡山市に出て、創作会や歌会をしています。
活動を続けてもう、二年以上になります。文化振興の側面もありますが、そういう場所があることが大事だと思って。私は本がとても好きです。
さて、今これをお読みの方で、地方出身者の方、あるいは現在地方在住の方、おられると思います。該当する方は、小さく頷いてください。
それから…この先、地方に住む可能性のある方も、小さく頷いてください。
多くの方が、これらの質問で頷きましたよね。地方に関わる方は、意外に多いのではないかと思います。ずっと都会で暮らしてきた方は、少数派なのではないでしょうか。
ところで、地方で生まれた多くの人が、一度は都会で暮らしてみたいと考えることがあるようです。就職や進学などのため、都市へ出てしまう人は少なくありません。
どうせ行くなら、より人口の多い都市。
例えば札幌、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸、福岡など、人の密集する大都市を目指すことが多いようですね。
(実際の、「地方」の区分では、東京以外の全都市が地方ですが、本稿ではご依頼の趣旨を考え、あえてふわっと田舎な感じを「地方」としました)
地方に住んでいると、情報源がネットやテレビになるので、そこではどうしても、都市部の楽しい文化が多く流れています。子供の頃からそれを見ていると、都会に対するあこがれが生じることもあるかな、と思います。
そこには実際に、先端文化があるような気がしますし、地方に比べれば、『個人』の『自由』が保たれている可能性が高いような、淡い期待を抱きます。実際には、そうではないとしても。
都市と創作のこと
創作、詩作は、ごく個人的な行いです。
『個人』を『私』に言い換えます。『私』が創作をしたいと思った場合、都会での暮らしには、創作のきっかけとなる刺激や物事が数多くあるように思いました。
先にお話ししました先端文化以外にも、ただ街を歩くだけでも、道行く人から得られる刺激がたくさんあります。そこで『私』は自他の比較をすることで、ごく個人的な創作という行いに没頭することができるのです。他人がより多く居る都会に住み、孤独を感じることは、何ら不思議なことではありません。
都市に住む大量の他人のなかに身を置いて、それぞれが一見無関心であること。現代の都市は資本主義によって成り立っていますので、そこで『私』が形成されることは、近現代の創作や詩からも見て取れますね。
また、季節ごとに変わるショーウィンドウや、チェーン店で流れる音楽など、時流が確実に掴めます。特に若い方に向けた創作をする場合、これらは大事な要素になります。そこにあるものが、例え虚構の先端文化だったとしても。
ですが、こうして創作に向いていると思われる都市を成立させている社会システムは、職業を選択した上で選んだ不自由である、労働でできています。
そこで暮らす人々は、規則的に運行される公共交通機関、電気、水道、提供されるさまざまな娯楽、サービスを享受しながら、一方ではそれを提供する側でもあります。仕事とプライベートで、基本的には公私を切り替えながら暮らしているのです。
そのプライベートな時間。たとえば仕事や学校後のわずかな時間を私的に割り当てようとしたときに、自室以外の『公』の場所にもその活動ができる場所が必要になります。都市にはこの、『公的空間のなかの私的空間』が多く存在します。例えば飲食店、喫茶、シアター、本稿の場合、書店や、短歌をする場所。歌会ですね。
労働時間中は、基本的に画一的で単純作業の繰り返しが多く、その多くでは、必要とされる以外の個性を主張することは求められていません。この場合の、『公』での自由度が低いことは、都市も地方とあまり変わりがないように思います。
ですが、『私』の部分での選択肢が数多くあり、それぞれのアクセスも容易であることが、都市が都会である所以です。
私は地方のなかでもさらに田舎で生まれ育ったので、ちょっと極端な話になるかも知れないのですが…。私の住んでいた田舎は、現在店舗がある土地ともまた違い、『私』の部分は、ほとんどなかったように思います。日常的に、積極的な社会参加を求められていました。
子供の頃から、地域の行事だけでなく環境保全活動、清掃や草刈り、水路掃除、森林伐採など、様々なことをしてきました。
少子高齢化が問題となる昨今ですが、私は子供の頃からそれを実感していました。
地方に多様な場をつくる。短歌に触れる場をつくる
詩情は個人的なもので、それをやり取りすることは、ごく親しい者との間で『私の世界』を送り合うことです。
短歌のベースには言語があり、それは主に日本語ですが、私たちが意思疎通のために学ぶ日本語表現は、文法、正確性などが最重要であり、曖昧さは極力排されます。そうしないと、社会のルールを読み解くことができず、社会システムの構築と維持、労働ができないからです。
他方、詩や創作は『私』を伝えることが最重要ですので、『公』とは相容れない部分があります。誰も、個人の心を縛ることができないように。それは保たれるべきだと考えますが、このことを『公』で行うことには、少なからず困難があるのです。
『私の世界』には、もっとたのしい、もっとあいまいな、もっと多様な『私』が存在する。
私を含めて、地方に住まう人々も、それぞれに個性があり、多様性があり、可能性を持って生きている。
都会であれば、都市の匿名性に紛れて、多様な自己を発する場があるかも知れない。けれど、少なくとも私が生まれ育った地方、田舎ではその場がなく、それを行うことができませんでした。
ですから私は地方にも、それができる、それを知ることができる場が必要だと考えました。
そして今、書店を開き、それぞれ個性の異なるたくさんの本を扱い、短歌や詩歌の本も取り扱っています。
地方では、短歌に接触する場がない
みなさんが短歌を知ったきっかけはなんでしょう。学校の国語の授業でしょうか。それともSNSでしょうか。あるいは、本の雑誌連載、新聞歌壇、NHK短歌。街の、ZINEなどが置いてある場所にある、短歌のフリーペーパーでしょうか。
この中の何かを読み、何かを聞いて、
「あ、なんか、短歌っていいかもしれない」
そう思ってくれていたら嬉しいのですけれど、どうでしょうか。
ふと目にする短歌が心のどこかをくすぐるようにして、理解はできないまでもすごくいいものだと感じる心がある、その時点でその方は、心になにかの素養を持っているのだと思います。
ですから私は、できるだけ多くの方にそのきっかけを持っていただくため、短詩や活字表現の良さを伝えたいと思っています。
でも、多分地方に限らないと思いますが、娯楽があふれる今、あえて短詩(本稿の場合は短歌)のみを選んでもらうことはとても難しいことです。
短詩、特に短歌には、他の文芸とは大きく異なる特徴があります。
読者がいつしか作者になる、ということです。
ですから読者だけを拡大していくということは、現実的ではありません。
むしろこのことは、短歌の文芸としてのスタイルとして大切なことなので、歓迎し、伸ばしていくべきことだと、今は考えています。
読者が「自分にも作れるかもしれない」「作るにはどうしたらいいだろう」と考えることは、その文芸が魅力的である証ですし、より身体性に近い、『私』が担保された世界があると確信されたが故にそう思われるのだと思います。そのことはとても素敵なことだと思うのです。
読者だった作者は、よりよい短歌を作ろうとします。そのときに他の作者の短歌を読むこと、研究すること、憧れの歌人がいることが、作歌のモチベーションや技能の向上に直結します。
短歌の文化においてはただ詠むだけ、ただ読むだけ、どちらか片方では足りない部分があるように思うのです。詠み・読むことがリンクすることで、表現の幅が広がります。それを発表することで、作者と読者は共に、短歌の世界にあるより一層の深みを知ります。
そのやりとりを行う際に、重要になるのが歌会です。
現実の歌会に事情があって参加することができない場合は、臆することなくネット上の歌会や、新聞歌壇などで楽しまれるのが良いですね。
まず、生活スタイルに合っているかどうかが大事です。
そのうえで私は、地方には気軽に参加できる歌会が少ないように思いました。
歌会に参加して人と対面で意見を交わし、人から評をもらい、自分からも評をする歌会も、短歌の持つひとつの楽しみ方です。
リアルタイムに評をすることで、より理解が深まること、確信が深まることもあります。
また、見逃してしまうことも多くあり、自分自身が気付けなかったことを顧みるようになります。時間の限られた場があることで、時間をかけて熟考するよりもむしろ、思索はより注意深くなるようです。
地方で歌会を見つけることは容易ではありません。実際に私が歌会を主催するに至ったきっかけも、場がないのであれば作ってしまえばよいと考えたからです。
定期開催する必要があり、人も大事で、資金もかかります。幸い人に恵まれ、参加されるみなさんが、短歌や表現について話せる『場』を欲していたことがわかり、強い刺激を受けています。
歌会をよりよいものにするために、どうしたらいいか。よりよい評をするために、どのような読みをしたらいいか。
歌会は、その場だけでなく、その先の暮らしと文化を作ります。よい歌を詠みたいという動機から始まり、参考に、どのような本があるか気になり、どのような歌人がいて、どのような短歌があるのか気になり、世間の動向を知りたくなり、文化はどうなっているのか知りたくなる。
詠み人を増やし、読む人を増やす。歌を詠み、歌集を読む。己を知り、人を知り、何かに気づき、古き中にも、新しき中にも、知らなかった世界を知る。知れば、その先にまだまだ未知の領域があることがわかってくる。
人それぞれに持つ、個人個人の可能性や発想を知るたびに
『必ずしも都会的でなくとも地方で短歌を詠むことができる』
とわかってきます。そのためには、地方でも歌会や、場が必要です。
学校や少しの雑誌などで触れる短歌以外にも、きっかけとして、または短歌に持続的に触れる場を作らなければならないのです。
このような理由で歌会を始めてから、一年以上が経過しました。
書店を始めて二年以上です。
参加者の強い思いと行動力と、みなさまのおかげで、楽しい歌会を続けることができています。
今後も月に一度、月の後半平日夜に、歌会を行っていきます。
学校や、仕事帰りの夜に、立ち寄り易い時間です。初心者でも問題なくお越しいただけます。
ぜひ一度、お越しください。
それから、書店も、今後も続けていきます。ぜひいらしてください。
書籍が、必要な方に届きますように。
この記事を書いた人
書店喫茶「文藝イシュタル」店主
元中堅ブロガー、ライター。現職のほか、寺子屋を運営。別名義にて、作家、詩人、美術家として活動中。
歌会と創作文芸会を主催しています。店舗含めてお気軽にお問い合わせください。
Facebook https://www.facebook.com/bookishtar/
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*書店ロゴデザイン 文車雨
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風鈴の糸を結んでいるひとの瞼が二回音もなく鳴る
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