こんにちは、橋爪志保です。
雑誌「現代短歌」に連載中の宇都宮敦さんの作品鑑賞も、3回目(<0>はじめに を含めると4回目)になりました。
今回の作品は「ディスコティカ」24首。さっそく見ていきましょう。
うにうに
うにうにとつまさき立ちで飾りつけるカエルの卵のような電飾/宇都宮敦
一首目の初句が「うにうに」だとなんだかうれしくなってしまう自分がいます。かわいいですね。うにうに。
歌を最後まで読んでいくと「うにうに」しているものの正体が「カエルの卵のような電飾」――クリスマス期などに木とかにかかってあるあれのイメージです、たしかに点が線でつないであってうねっている様子は「カエルの卵」っぽいです――であることがわかるのですが、最初の部分を読んだだけだと、「つまさき立ち」をしているようすを「うにうに」と言っているようにも見えます。「つまさき立ち」しているときの足って、たしかにつまさきでぎゅっと立ち続けるのがしんどくて「うにうに」してしまいますね。
これはやっぱり語順の効力がぞんぶんに働いている歌だと思います。それだけでなく、電飾を飾るという「何かの始まり」(それがパーティーなのか何なのかはわかりませんが)につながりそうな行為から一首目がはじまっていく高揚感は、なんだかわからないけれど、ありがとう、みたいな気分になります。
モノそのものへのよろこび
晴雨表はつけないけれど晴雨表つきカレンダーなぜかうれしい/宇都宮敦
晴雨表、とは天気が書き込めるようになっている表のことでしょうけど、この「うれしさ」、実感としてよくわかります。すごく原始的なよろこびのような気がするんですね。「あ、天気が書き込めてなんて実用的、得した~」とはちょっと違うよろこびなんですよ。だって晴雨表は実際使わないんですからね。それよりももっと、晴雨表というモノそのものの存在への賛歌って感じです。
もちろん、「なぜか」の理由を探していくと、たとえば「小学生のとき晴雨表を絵日記の端に書いていたりしてそれが思い出されて懐かしいからうれしい」とか、具体的な理由があるかもしれないんですが、ここは「なぜか」だからいいんですよね。
機能や実用を越えた存在そのもののありがたさをかみしめる、という行為は、芸術というもののあり方や芸術鑑賞にそっくりそのままあてはまるような気がしなくもないですが、あまり深く考えなくてもこの歌は楽しめると思います。
春のぜいたく
この季節こころ曇るのは花曇り からだ冷えるのならば花冷え/宇都宮敦
花曇りも花冷えも、春先の気候を言い表したことばです。でも、ことばの本来の意味では、花曇りでほんとうに曇るのは空、花冷えでほんとうに冷えるのは空気なはずです。でも、そんな野暮なことを書くのがばからしくなってしまうほど、この歌のこころとからだは季節に従順です。なんだか羨ましくなってしまいます。とはいえ、こころが曇ったりからだが冷えたりする現象は、一般的には「快」をともなうものではありません。けれどわたしは、
塩まじりの風にドーナツの粉をはらう 季節の上前をはねて生きてく/宇都宮敦
という、連作中の別の歌にもあるように、「季節の上前をはねて」いるようなくらい、こころやからだのその変化がぜいたくなことのような気がするのです。
死に地味も派手もないとはおもうんだけども
側溝とかの狭いところに挟まっていつかむかえる僕の死だろう/宇都宮敦
側溝に挟まってむかえる死、はすごくみじめでさびしいもののように思えます。あるいはちょっとシュールでおもしろいシーンかもしれない。そもそも、死因は?側溝にたまった汚い水での溺死?もしくは挟まったまま出られなくなって餓死?あまり明確なイメージとも言えないのかもしれません。
でも、いずれにせよ、死の光景としては、明らかに地味で孤独なほうだと思います。だって、ふかふかのベッドで家族に手をとられてむかえる死や、電車にばこんとはねとばされる死と比較してみてください。明らかにこの歌はそういうものを意識していると言わざるを得ないとわたしは思いました。
電車にばこん、で思い出すのが、
あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな/永井祐
です。この電車の歌は、現代の若者の思う「死との絶妙な距離」がゾクゾクすると思うのですが、これと側溝の歌は対比がいくらでもできそうです。地味な死に方予想の宇都宮作品と、派手な死に方予想の永井作品(死を地味や派手をというものさしではかる不謹慎さは一応わかってはいるつもりなのですが、評の中だけで便宜的に行わせてください)。
「僕の死だろう」と「死」が見えている宇都宮作品と、「するんだろうな」とぼんやりでしか「死」をとらえていない永井作品。側溝のこの歌を読んで、現代の「死」はここまできたか、と絶望と希望がごちゃまぜになった気持ちになりました。「側溝とか」の「とか」にクラクラします。
飛躍!
ヘッドホンの中で左右に音が飛ぶ 飛べるのに走って逃げる鳥がいる/宇都宮敦
音が飛ぶことと、鳥が飛ぶこと。同じ「飛ぶ」だけどずいぶん違います。それこそ「飛躍」があって、ここでも意味が飛んでいるわけです。こういうの、なんだかしつこくて、逆にオシャレだなと思ってしまいます。いうなれば、一字空けのところでぴょんと飛び石をとぶような(飛び石の独特の楽しさってありますよね)あれと似た感じを受けます。
「飛べるのに走って逃げる鳥」というのは、鳥好きのわたし的にはかなり「かわいい!」ポイントなのですが、ちょっとまぬけで、かわいそうな印象も覚えます。
「音が飛ぶ」というのは、この書き方だと「音飛び」のことなのか、ただ「音楽が流れている」ということなのかはちょっとわかりませんが、「音飛び」として読んだほうが、鳥のトホホ感が出るような気がします。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回の連作はとくに、『ピクニック』の雰囲気も彷彿させるところが多く見受けられたように感じます。すきな歌が多かったので思わずたくさん引用してしまいそうになりますが、本誌をこれから見られるかもしれないみなさまのためにこのくらいにしておきます。「現代短歌」7月号は、一部の書店または現代短歌社のサイトから購入できます。
それでは次の回でお会いしましょう!
この記事を書いた人
橋爪志保
2013年に作歌を始める。京大短歌を経て、現在は同人誌「羽根と根」所属。第二回笹井宏之賞にて永井祐賞受賞。2021年4月に第一歌集『地上絵』上梓。Twitter @rita_hassy47
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通販 https://hassytankashop.booth.pm/
自選短歌
I am a 大丈夫 ゆえ You are a 大丈夫 too 地上絵あげる
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