朝ドラ『舞いあがれ!』が現実の短歌シーンを映し出している件

コラム

1 はじめに

こんにちは。大阪で短歌をしている牛隆佑という者です。

梅津貴司という歌人が短歌の界隈で話題です。話題と言っても、歌人でもある桑原亮子さんが脚本を担当するNHK朝の連続テレビ小説『舞いあがれ!』の登場人物であり、俳優・赤楚衛二が演じる架空の歌人なのですが、現実世界にリンクした舞台設定と、リアリティのある演技で、ずっと前から知っていたような気さえしてきます。

とは言え、『舞いあがれ!』の主役はあくまでも岩倉舞(演:福原遥)であり、梅津貴司のみに注目すると空白や省略も多くあります。この記事では梅津貴司の空白を、現実の短歌シーンや、近い世代である僕の個人的な思い出に照らし合わせながら想像してみようとするものです。(この記事は2023年3月中旬に執筆しています)

 

2 幼少期

梅津貴司(演:齋藤絢永→赤楚衛二)は1985年に東大阪市でお好み焼き屋「うめづ」を営む梅津勝(演:山口智充)・雪乃(演:くわばたりえ)の元に誕生しました。この実家を兼ねる「うめづ」が主人公の実家、岩倉家の隣家で、主人公とは生まれた時からの幼馴染です。

ちなみに、筆者(牛)は、1981年、大阪府豊中市生まれ。梅津貴司の4学年上です。世代的にも地域的にも近いと言えなくもありません。

ここで、梅津貴司の両親についても触れておきます。そもそも、『舞いあがれ!』は、東大阪の町工場を舞台にしています。主人公の岩倉舞(演:浅田芭路→福原遥)の両親は螺子工場を生業にしていて、後に主人公も螺子工場の営業を務めることになります。

東大阪を知る者からすれば、この設定時点で心苦しくなります。東大阪市は明治時代から今日に至るまで、「中小企業の町」として全国有数の工業都市ですが、産業構造の変化、バブル経済の崩壊、リーマンショックを経て、苦境の時代の真っただ中にあります。

おそらく、梅津家自体が、岩倉家ひいては東大阪の栄枯盛衰を見守る役割を与えられているのではないでしょうか。それを象徴するのが父・梅津勝がいつも着ている近鉄バファローズのユニフォームです。近鉄バファローズは、かつて藤井寺球場を本拠地としたプロ野球の球団で、昭和の時代の3回のリーグ優勝のほか、2001年にもリーグ優勝を果たしており、「うめづ」にはこの時のユニフォームが飾られています。しかし、2004年には金融企業であるオリックスが保有するオリックスブルーウェーブに、実質的に吸収合併されるかたちで消滅しました。近鉄バファローズの歩みは、工業都市・東大阪の、ひいては岩倉家の歩みとどこか似ています。

さて、物語は1994年4月から始まります。梅津貴司は小学3年生です。幼馴染らしく第1話から登場します。病弱で走り回ることができない岩倉舞の「貴司くん、みんなと遊べてええなあ」という言葉に「合わせてるだけや」と答えるあたりに、後の人物像の片鱗が窺えます。

その後、岩倉舞は祖母の住む長崎県の五島に半年ほど移るため、しばらく梅津貴司の出番は少なくなります。ちなみに、この夏、岩倉舞が五島から送った灯台の写真葉書が後の梅津貴司を救うことになります。

夏が明け、9月になり岩倉舞は東大阪に戻りますが、ここで、梅津貴司に小さな転機が訪れます。古書店「デラシネ」とその主人・八木のおっちゃん(演:又吉直樹)との出会いです。八木の自主製作(私家版)の詩集に心惹かれるなどの描写が見られます。八木の言葉が良いですね。

生きていくゆうのはな、大勢で船に乗って旅してるようなもんや。みんなが船の上でパーティーしてるとき、おっちゃんは息が苦しなる。それで冷たい海に飛び込んで、底へ底へ潜っていって、ようやく息ができるとこを見つける。そこに咲いている花を必死でつかみ取って、船の上に戻ってくる。そしたらしばらくは息ができんねん。その花が詩ぃや。

ちなみに、もう1人の幼馴染、望月久留美(演:大野さき→山下美月)にも小さな転機が訪れます。岩倉舞から託された学校のウサギの「すみちゃん」が看病中に死んでしまったことです。将来、看護師になる久留美の原体験になったと思われます。(ドラマ内では母親と同じ職業であることも示されます。)

「すみちゃん」という名前が良いです。いつもウサギ小屋の隅にいることから岩倉舞が付けた名前です。また、ウサギは弱っているところを人に見せずに隠すので、突然死んでしまうことがあると言及されます。この後、ドラマでは、「すみちゃん」のような苦しみ弱りながらも人に打ち明けられない不器用な人たちが多く登場することになります。

とりわけこのころは、まだ「男らしく」「女らしく」とよく言われた時代で、男性の梅津貴司は弱い部分をさらけ出すことに、今よりももっとためらいがあったかもしれません。

 

3 短歌をはじめる

梅津貴司が短歌を作りはじめるのは、2005年1月です。社会人一年目、仕事のうまくいかなさや「普通」に馴染めない自分自身への悩みから詩作にのめり込んでいましたが、デラシネの閉店により居場所を失います。その際に、店主の八木から勧められ、短歌を作りはじめています。

ちなみに僕はこのころ、まだ短歌を始めていませんが、東大阪市の大学(おそらくドラマでの「河内大学」)の大学院に在籍しており、大学図書館で収書整理のアルバイトをしていました。社会人の外部利用も可能なので、もしかしたら梅津貴司も歌集や歌書を読みに来ていて、その際にニアミスしているかもしれません。

さて、ところが梅津貴司は3月に突然、職場に退職届を提出し、失踪します。その時の五島での短歌がドラマに登場する梅津貴司の1首目です。岩倉舞、望月久留美に発見された大瀬崎灯台での台詞が胸を打ちます。

3日間ここにおってん。最初は白い波ばっか見ててな、ほんなら、海の色がきれいやなあって気ぃついて、近くから遠くへ、どんどん青色が濃くなっていくん見てた。海の果てまで見てたら、そっから空がはじまってた。無限の青やで。空が暗なったら、浮き上がるように星が見えてきてん。ただの闇やと思てた空に、こんなぎょうさん星あったんやなって、今まで、狭い世界しか見えてなかったんやな。来て良かったわ。

そして短歌。

星たちの光あつめて見えてきたこの道をいく明日の僕は/梅津貴司(桑原亮子)

「いく」は「行く」であると同時に「生く」であり、倒置法を用いて「僕は」で終えるところにこれからの果てしない道の続きを思わせる工夫がなされています。とは言うものの全体としてはぎこちなさも感じられてリアルです。

その後、梅津貴司は両親の理解を得て、全国へ放浪と創作の旅に出ることになります。その時々で、岩倉舞に短歌を贈り、それらは折にふれて舞を励まします。

全国を放浪と言えば、いろいろな歌人が想起されますが、僕が思い浮かべるのは松村正直さんです。大学卒業後、フリーターをしながら全国を移り住むエピソードが知られています。2001年の第一歌集『駅へ』(ながらみ書房)から短歌を引用します。

忘れ物しても取りには戻らない言い残した言葉も言いに行かない/松村正直『駅へ』
それ以上言わない人とそれ以上聞かない僕に静かに雪は/同

歌人・梅津貴司の印象的なシーンは4年後、2009年。放浪の旅を終え、実家に戻ったころに、新聞に歌人・桑野(脚本家・桑原のパロディ)の選で5首連作の短歌が掲載されています。この5首がとても良いのです。この5首は『NHKドラマ・ガイド 舞い上がれ!Part2』(NHK出版)で歌人の江戸雪さんが解説をしているので、ここでは冒頭の2首のみ引用します。

陽だまりの方へ寝返りうつように昆布は水にひらいていった/梅津貴司(桑原亮子)
幾たびか咳に目覚めて対岸の灯を恋うように朝を待ってる/同

一首目、日陰から日向へとひらく昆布。「ひらいていった」という進行形にゆっくりと時間をかけて少しずつ、しかし懸命に開いていく様子が分かります。

二首目の「咳」はドラマの状況から推測すると、隣家の岩倉舞の咳かもしれませんが、一首単位では自分の咳と読めます。体調を崩して気弱になっているのかもしれません。夜に暗闇に目を覚まし、不安に襲われるような、思い返せば誰しも憶えのあるようなシーンを切り取っています。連作全体に現在位置の暗闇から光の方へ懸命に手を伸ばすようなモチーフが見られます。後にも北極星のエピソードなどが見られ、道標となる「光」が梅津貴司の重要なテーマになっていることが分かります。おそらくこれも、幼少期に岩倉舞にもらった灯台の写真葉書がずっと心の御守りとしてあったからではないでしょうか。

ところで、ここで気になるのは、母・雪乃の「はじめて新聞載ってん」という言葉です。何度か投稿していて、「はじめて」掲載されたのだろうと推察しますが、何年も投稿し続けてそれまで一度も掲載されなかったとは考えにくいので、投稿を始めたのはおそらく実家に戻ってから数カ月の期間でしょう。では、それまではどういった「場」で短歌を作っていたのでしょうか。性格的にはどこにも発表せずに各地で短歌を作り溜めていても不思議ではありませんが、この(2009年当時の)現代的な口語文体をどこから習得したのだろうという疑問が残ります。『NHKドラマ・ガイド 舞い上がれ!Part2』では、梅津貴司が影響を受けた歌人として、斎藤茂吉、佐藤佐太郎、安永蕗子、山崎方代、土屋文明、が挙げられていますが、いずれも明治・大正の生まれで、文体への直接的な影響とは考えにくい面があります。

ここで梅津貴司がIT企業に勤めていたことが思い出されます。岩倉家の工場のHPも制作していることから、インターネットには日常的に触れていたのではないでしょうか。2005~2009年の頃のネットは、TwitterやFacebookが日本でのサービスを開始した時期(2008年)であり、mixiなどはすでに存在していたものの、現在の「ネット=SNS」以前の時代、つまりblogの時代です。もしかすると梅津貴司は、インターネットの歌人が集まり1年間で100首の題詠を行う「題詠blog」を読み、そこから口語文体を吸収したのでは、と想像します。「題詠blog」の前身「題詠マラソン」の書籍『短歌、WWWを走る。題詠マラソン2003』(邑書林)から何首か引用します。

脱ぎ捨てたかたちのままのジーンズに朝はきらきらたまっていった/伴風花『短歌、WWWを走る。題詠マラソン2003』

半分は猫の目をして見ていたらこころの遠くなるのがわかる/佐原みつる 同

どこへでも行けそうなのに行けなくて駅のホームで空を見上げた/舟橋剛二 同

どことなく梅津短歌っぽい文体と雰囲気が感じられないでしょうか。もちろん、そのほかの歌集、短歌総合誌から吸収した可能性も大いにありますが、この時期にインターネットから短歌をはじめた私からすると、梅津貴司が同じものを読んでいたらいいなあと思うのです。

 

4 長山短歌賞

ドラマに4年後の2013年に飛びます。この年は梅津貴司に歌人としての転機が訪れます。長山短歌賞への応募と受賞です。長山短歌賞はドラマでの架空の賞ですが、ネーミングや50首連作での応募であることから、まず間違いなく角川短歌賞がモデルだと思われます。実際に角川短歌賞は2013年に伊波真人さんの「冬の星図」(吉田隼人さんとの同時受賞)、翌2014年に谷川電話さんの「うみべのキャンバス」が受賞しています。彼らは梅津貴司と同じくポップ感のある口語体の短歌を作っています。

まっさらなシャツをはじめて着るように土曜の朝を大事に過ごす/伊波真人 第59角川短歌賞「冬の星図」

足音でだれだかわかる 玄関にひかりがさして蘇生していく/谷川電話 第60回角川短歌賞「うみべのキャンバス」

ドラマ漫画などで文学や芸術が用いられる場合、ストーリーの上ではベストセラーになったり権威ある賞を受賞したりしますが、実際に使われている作品を見ると「いやいや、このクオリティやこの作風のものでは現実には無理だろう」というものもあります。しかし、梅津貴司の短歌は、たしかに受賞するかもしれないと思わせる短歌になっている、と思います。

ちなみにドラマでは「短歌界の芥川賞と言われている新人賞」という説明もあり、これは角川短歌賞にしばしば修飾される序詞です。ただし、個人的にはこの形容は違和感があります。

個人的ないちゃもんと思って読んでほしいのですが、角川短歌賞は権威ある新人賞ではあるものの、芥川賞とは性質が異なります。芥川賞が文芸誌に掲載された小説から選ばれる「優れた新人に与えられる賞」なのに対して、角川短歌賞は未発表作品を公募し、受賞してはじめて短歌誌に掲載される、言わば「新人になる資格が与えられる賞」です。
バファローズファンの父・勝のイメージしやすいようにプロ野球にたとえると、芥川賞が文壇における「新人王」のタイトルで、角川短歌賞は歌壇の「ドラフト1位指名」の位置づけと言えます。したがって、優先的にチャンスを与えられはするものの、その時点では歌人としての立場を保証し得ないし、ましてや未来を約束しません。だから、短歌賞を経ずに(ドラフト下位で入団し)名を挙げた歌人も多くいる一方、新人賞を受賞したもののその後、歌人としての評価を得ることなく筆を折る歌人もいます。なぜ、こんないちゃもんめいたことを述べるのかと言うと、それは、次章の長山出版編集者・リュー北條(演:川島潤哉)の言葉の説得力に関わってくるからです。

 

5 歌集出版

83話からは梅津貴司を取り巻く人物として、長山出版編集者のリュー北條が登場します。

北條のすすめで歌集を出そうということらしいです。先ほど「短歌の新人賞は新人王ではない」と述べましたが、では、何によって新人の評価がなされるのかというと第一歌集なのです。現在は少し変化の兆しが見られますが、当時はまだ歌壇において歌人の評価は歌集ベース、と言うよりも、歌集でしかなされないのが実情です。だから、新人賞を受賞した梅津貴司が歌集を出そうとするのもごく自然な流れなのですが、ここで野次馬的な疑問が生まれてきます。「歌集出版費用はどうしたのだろうか」という疑問です。

短歌をはじめてから短歌界の事情を知っていくと、9割以上の歌集が自費出版であることに驚くことになります。新人賞を受賞した歌人であっても例外ではありません。一般的に出版費用は軽自動車一台分と言われており、100~150万が相場です。社会人時代や放浪時代での貯金か、ドラマではとてもそうは見えないが実はデラシネがけっこう儲かっている、あるいは両親が資金の援助をしているかもしれません。以前、母・雪乃は「貴司は本が好きだから文学部に行かせたかった」という発言があり、あの両親なら喜んで助けてくれそうです。(しかし、なんと理解ある両親なのでしょうか。)

ただし、いずれのケースもどうもしっくり来ません。やはりおそらく、費用を出版社が持つ商業出版であろうと思われます。2023年の現在はやや状況も変わってきましたが、2013年は、ようやく書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズ(出版費用は作者と出版社の折版)がスタートした年で、出版社にも書店にもまだまだ「歌集が売れる」とは認識されていたとは言い難い時代です。したがって、無名の新人である梅津貴司の第一歌集を商業出版で、というのは出版社としてもかなりチャレンジングな行為なのです。その前提で見ると、明らかに初登場時から拝金主義的な胡散臭さを醸し出していた北條の印象が変わってきます。「梅津さんの歌集を売りたいんだよ」という北條の言葉は、「歌人としてやっていくためには歌集を出版せねばならず、自費出版で出せないなら商業出版で出すしかないのだけれど、それなら売れないと次(第二歌集)につながらないんだ。」というのが実情に即したものであり、それを「全力で売り出していきたい」と編集者のエゴに換言している北條はとても誠実に思えます。

ここで思い出される歌集が、2016年に出版された鳥居さんの第一歌集『キリンの子』(KADOKAWA)です。養護施設やホームレスの生活の経験を持つ鳥居さんは、2016年に商業出版で歌集を出版しています。半生を綴った伝記本も同時発売され、作者自身の経歴を前面に出した売り出し方には歌壇からの反発や懸念があったことは否めませんが、結果として歌集『キリンの子』は短歌界の内外で話題となり、ベストセラーになっただけでなく、優れた新人の歌集に贈られる現代歌人協会賞を受賞しました。『キリンの子』はあのやりかたでしか世に出なかった歌集だったはずですし、そのやりかたでしか歌人としての道を切り開くことができなかった、という点で僕は『キリンの子』の出版を肯定します。ちなみに『キリンの子』の版元は長山出版のモデルである角川書店です。

助けられぼんやりと見る灯台はひとりで冬の夜に立ちおり/鳥居『キリンの子』

いつまでも時間は止まる母の死は巡る私を置き去りにして/同

また、僕はこの2013年に、大阪・難波にて借り家歌会というだれでも参加できる歌会をはじめています。梅津貴司は岩倉舞の仲間の多さを羨んでいたので、ぜひ参加してもらいたいところです。この頃から大阪では同年代の歌人の組織ベースではない個人間の交流が活発になっていった背景があります。どちらかと言えばシャイな人間の方が多いので、人間関係が苦手という梅津貴司もつきあいやすいのではないかと思います。歌集批評会もしましょう。あと、そのうちに大きめのイベントをするので、スタッフとして手伝ってください。

 

6 おわりに

梅津貴司第一歌集『デラシネの日々』は、ベストセラーとなったとのことです。2013年は木下龍也第一歌集『つむじ風、ここにあります』(書肆侃侃房)の刊行年であり、若手の第一歌集が書店に並ぶだけでなく、出版社や書店の努力で推し出されはじめた時期でもあります。このあたりの事情を反映しているのかもしれません。

その後、岩倉舞との結婚、娘の誕生、歌人としては短歌誌での連載など、充実した生活を送り、第二歌集、第三歌集へと続いていきます。

梅津貴司にだれかモデルとなる特定の歌人がいるとは思いません。しかし、ドラマを見ているとあの人やあの人のことをつい思い出してしまう、という方は多いのではないでしょうか。梅津貴司が過ごしてきた期間、短歌界には色々な変化があり、色々な歌人がいて、色々なことが起こりました。その全体的な雰囲気を脚本家が丁寧に掬い上げ、1人の人間として象徴化したのが梅津貴司という歌人なのだろうと思います。

あの時代、梅津貴司のような繊細で優しい人たちが短歌をしていました。今も短歌を続ける人も、短歌をやめた人もいます。また、やめたといっても、短歌を続けられなかった人も、短歌から離れることができたと言うべき人も、さまざまです。たしかにそこにいたはずの彼や彼女が、せめて穏やかにそれぞれの生活を送っていると祈るように、梅津貴司の最終回後の人生を想像したいと思います。

この文章を書いた人

牛隆佑

1981年生まれ。フクロウ会議メンバー。

これまでの活動はこちら

Twitter:@ushiryu31
blog:消燈グレゴリー その三

自選短歌

朝焼けは夜明けを殺しながら来る魚を食らう魚のように

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