萩原慎一郎『滑走路』を読む~三十一文字で鳥になるのだ~

コラム

みなさんこんにちは。TANKANESSライターの貝澤駿一です。

これまで自分は、「教科書に載っている歌人の作品を読んでみよう」というシリーズで、石川啄木と若山牧水を取り上げてきました。二人とも明治時代に生まれた人物ですが、現在でも広く読まれている日本を代表する歌人です。啄木や牧水の時代は、短歌は文芸青年にとってのあこがれであり、また一般の人々にとっても、一つの教養として短歌が読まれたりつくられたりした時代でもありました。

現代では、まわりに短歌を日常的につくっている人や、読んでいる人がいること自体が珍しくなっていますね。そんな現代の短歌の世界ですが、時には一般の読者にも広く読まれ、愛され、話題になる歌集が登場することもあるのです。

 

萩原慎一郎(はぎはらしんいちろう)さんの歌集『滑走路』は、2017年に発表された著者の第一歌集です。

萩原さんはNHK全国短歌大会や朝日歌壇での入選経験もあり、短歌の投稿をする人にとってはよく知られた歌人だったのですが、歌集の入稿後に急逝してしまったため、『滑走路』は生前唯一の歌集にして遺歌集となってしまいました。

思春期の頃にいじめをうけ、ふさぎがちになっていたという萩原さんは、自分を救ってくれた短歌に対する思いをこの歌集に閉じ込めています。等身大のことばでつづられたまっすぐな思い、そんな純朴な青年をあざ笑うかのような「非正規雇用」という厳しい現状、そして、それでもひたむきに「生きて」いこうとするその姿が共感を呼び、『滑走路』は歌集としては異例の大ベストセラーとなったのです。

2020年には、歌集を原作としたオリジナルストーリーの映画『滑走路』も公開になりました。今後もますます多くの人がこの歌集を読み、萩原さんの短歌に触れることになるのではないでしょうか。

 

『滑走路』は、リーマンショック以来の「非正規雇用」という厳しい現実の中で、それでもふつうに恋をし、仕事をし、そして青春をしたいと願い続けたひとりの心優しい青年の魂の記録です。今回は、そんな『滑走路』をぼくなりの視点で読み解いていきたいと思います。映画を観て歌集に興味を持ったという人も、書店で見かけてふと気になったという人も、ぜひ、長いですが本記事を最後まで読んでみてください。

 

貝澤駿一

1992年横浜市生まれ。「かりん」「gekoの会」所属。2010年第5回全国高校生短歌大会(短歌甲子園)出場。2015年、2016年NHK全国短歌大会近藤芳美賞選者賞(馬場あき子選)。2019年第39回かりん賞受賞。

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萩原慎一郎『滑走路』を読む

『滑走路』をどう読むか

 

『滑走路』は短歌の総合誌や時評だけではなく、一般のメディアにも頻繁に取り上げられましたが、その際には次の一首がよく紹介されていました。

 

ぼくも非正規きみも非正規秋が来て牛丼屋にて牛丼食べる

 

おそらくは同じ非正規雇用である友人と、牛丼を食べているだけのこのシーン。淡々としたその口調からは、かえってこの現実のやりきれなさが感じられます。「非正規」も「牛丼」も、労働者にとって非常に厳しい今の社会の在り方を端的に象徴しています。この歌は2015年に朝日歌壇賞を受賞し、名実ともに萩原さんの代表作となりました。

 

牛丼を食べる歌には、次のような一首もあります。

 

頭を下げて頭を下げて牛丼を食べて頭を下げて暮れゆく

 

この牛丼は一日のおわりの、おそらくは夕食にかきこんでいる牛丼でしょう。仕事では今日も頭を下げ続けた。その屈辱がフラッシュバックするように、また頭を下げて牛丼に食らいついている。生きるためには食べなければならないからこそ、この食事のシーンは胸につまされます。日々の食事ですら、労働の一部になってしまっている悲しさを感じます。

 

牛丼屋頑張っているきみがいてきみの頑張り時給以上だ

この歌では牛丼を食べる自分ではなく、牛丼屋で働いている店員の労働に注目しています。

労働者である自分の労働を支えているのは、同じように時給で働く労働者。萩原さんはそんな店員さんに率直な好意をあらわしている。それには言葉以上の力が感じられます。店員さんもそんな風に褒められたことなどなかったでしょう。こうした素朴な優しさは、目立たなくても影で社会を、社会で働く人たちを支えているのです。

時給で価値づけられるもの以上の価値を、いまや日常的すぎて誰も気に留めないような労働に見出した、そんな青年の感性が美しく光る作品です。

 

牛丼の歌には先例も多く、現代社会の閉塞感を象徴するものとして扱われていることがよくわかります。

うつむいて並。 とつぶやいた男は激しい素顔となった/斉藤斎藤

吉野家の向かいの客が食べ終わりほぼ同じ客がその席に着く/望月裕二郎

いにしえの牛の生贄かなしかり吉野家で玉子黙して落とす/丸地卓也

 

斉藤さんの歌は、「激しい素顔」という表現が印象的で、本来は豊かなものであるはずの食事に何の感情も湧かないことへの違和感がにじみでています。

望月さんの歌は、個性というものがはく奪され、誰もが誰かと交換可能であるかのような社会の現実を反映させています。「向かいの客」と「ほぼ同じ客」を観察している自分自身もまた、彼らと「ほぼ同じ客」であるということに気づいてはっとさせられるのです。

丸地さんの歌はとても思索的で、誰かの犠牲の上にまた犠牲を重ねるという現代の労働のおそろしさを、牛丼と玉子になぞらえて歌っています。

 

こうした歌の作者たちは、「牛丼」というワンシーンからおそろしく冷静に現代社会を見つめているなという印象を受けます。そういう意味では、萩原さんの「牛丼」の歌のほうがもっとずっと切実な思いを感じます。そして、その切実さに対して読者が共感や哀れみを覚えたときに、これらの歌は記憶されることになるのです。

 

しかし、歌集の読み方としてはそれだけでいいのでしょうか。もっと言えば、そうした切実さや共感性の高さのみによって注目される歌集でいいのでしょうか。『滑走路』を読むとき、ぼくがとても難しいなと感じるのがこの部分なのです。あまりにも共感によりすぎると、作者が本当に伝えたかったメッセージを見逃すことになってしまうのではないだろうか、ある一面だけを過剰にクローズアップしていることにはならないだろうか、と。

本稿では、こうした点に注意をしつつ、『滑走路』を読むときのポイントとして、以下の要素をあげて考えていきます。

 

①恋の歌

②青春の歌

③労働の歌

④呼びかけの歌

 

もちろん、こう読むのが正解というわけではありませんが、歌集を読むときに歌の性質を分類し、整理して読むのは理解の助けになることが多いです。次節以降では、ひとつずつ要素を取り上げながら、『滑走路』を読み進めていこうと思います。

 

①恋の歌

「非正規労働者の歌集」と見られてしまいがちな『滑走路』ですが、おそらくそれはこの歌集のひとつの側面にすぎません。ぼくにとっては、それ以上に萩原さんの恋の歌や青春の歌が、とても魅力的に思えます。たとえば、歌集冒頭近くに置かれている、この作品。

 

自由な空よ 自由ではないこの街でぼくはあなたを探しているよ

「あなた」がどんな人物なのか、ここからは具体的に想像することはできません。ただ、「自由ではないこの街」にいて、「ぼく」が「あなた」を探している、その事実だけが大切なのです。何かを探すということは、それを探しているあいだ自分が「生きている」という実感を持つことでもあります。「探す」という行為は、暗い現実の中でも自分を前へ進ませる、できるかぎり前向きであろうとする、そんな強さを示しているのです。

 

ミスチルのライブに行ってきたというあなたの話聞くのが好きだ

かっこいいところをきみに見せたくて雪道をゆく掲載誌手に

ぼくは待つ勤務時間の終了をそしてあなたと会える時間を

萩原さんの恋は、どちらかというと「おくて」な恋のように感じます。こうした歌を読んでいくと、素直で物静かな青年の切ない好意が伝わってくるのですが、何か恋の進展を求めているというよりは、ささやかなこの関係がずっと続いていくことを願っているような印象を受けるのです。

音楽の趣味を語ってくれる人、短歌が掲載されたときにその喜びを共有してくれる人、仕事を終えた後に疲れをいやしてくれる人、そうした人たちの存在によって救われている自分は、決して「かっこいい」ものではありません。

 

あこがれのままで終わってしまいたくないあこがれのひとがいるのだ

きみじゃないきみを探すよ あの街にさよならをしてどこかの街で

ことごとくうまくいかない恋愛よ ふらふらになりながら歩くよ

かっこよくなりたい きみに愛されるようになりたい だから歌詠む

ふつうに恋をして、ふつうに失恋をする。失恋は次の恋の始まりだというけれど、萩原さんにとってはそれは次の歌を詠むための活力になる。ただ「かっこよくなりたい」という思いだけを抱えて、「かっこよく」なれれば誰かに愛されるだろうという希望だけに照らされて、前へ前へと進んでいく。恋愛の歌の中で、萩原さんはそんな「かっこわるい」自分の姿をありのままに見せています。そして読者は、そんな実直な青年の恋を、温かく見守らずにはいられなくなるのです。

 

②青春の歌

『滑走路』には、「年齢」や「年代」、「世代」というモチーフが頻繁に登場します。自分が大人になるにつれて、失ってしまったものへの憧憬を表しているのでしょう。「十五の夜」や「22才の別れ」のように、年齢を歌ったヒットソングは世代を越えて愛されています。萩原さんの「年齢」を歌った作品もまた、読者にとって普遍的ななつかしさを帯びる「青春の歌」として、歌集の中で豊かな輝きを放っているのです。

 

遠景になっている恋二十代なのになあって夕日に嘆く

歌集の中で、初めて「年代」が登場するのがこの一首です。「遠景」という初句がとてもセンシティブで、もう戻らない初恋の余韻のようなものがひしひしと感じられます。初恋の瑞々しい気持ちを忘れかけている「二十代」を「夕日に嘆く」姿からは、言葉とは裏腹に初恋のころの気持ちをまだ引きずっている繊細な心が見えてくるように思います。

 

〈青空〉と発音するのが恥ずかしくなってきた二十三歳の僕

二十代前半という年齢は、「青春」から距離を置こうとすることで、逆にそれに近づいてしまうようなもどかしさがあります。〈青空〉を恥ずかしく思う気持ちは、子どものころのように〈青空〉を好きでいたいという気持ちの裏返しです(この歌の少し前には「風景画抱えて眠るように ああ あの青空を忘れたくない」という歌があります)。

「二十三歳」は、一般的には大学を卒業して社会人一年目にあたる年齢ですが、少しでも大人であろうとする気持ちとまだまだ子どもでいたい気持ちが同居する、第二の思春期ともいえるような年齢なのかもしれません。

 

あのときのベストソングがベストスリーくらいになって二十四歳

音楽はすべからく「年代」「世代」と結びついているものですが、この歌では音楽を通じて自分の「青春」を追体験しています。

青春時代に聴いていた曲を、大人になって再び聴いてみる。「ベストソング」が「ベストスリー」になってしまう、この変化はとても微妙なものです。一番好きだった曲がそうではなくなってしまったとも、一番好きだった曲をまだ「ベストスリー」だと思えるくらいには好きだったとも読むことができます。こうした気持ちの揺れそのものが、社会に出て様々なことを経験しつつ心はまだ少年性を引きずっている「二十四歳」という年齢を如実に表しています。

 

ぼくたちの世代の歌が居酒屋で流れているよ そういう歳だ

居酒屋で「ぼくたちの世代の歌」が流れてきたときに、「そういう歳だ」ということを実感する。「そういう歳」とはどういう歳なのだろう。社会に出てそれなりに責任を負うようになる歳、結婚や出産といった人生の分岐点を迎える歳、あるいは、下から若い人たちが突き上げてきて居場所がなくなり始める歳…。

いずれにしても、「そういう歳」とは青春の終わりを意味しているのですが、ここには新たな青春の予感も感じられます。「そういう歳」を迎えた「ぼくたち」の生き方を暗示するように、居酒屋には懐かしの青春ソングが流れているのでしょう。

 

「遠景」も「青空」も「ベストソング」も「世代の歌」も、青春のある地点で失われるもの、あるいは失われるべきであるものなのだと思います。萩原さんはそれを自覚したうえで、それらを歌にすることで自分の現在(いま)によみがえらせたのかもしれません。「失われたもの」に対する萩原さんの感受性の強さは、次のような歌からも感じることができます。

 

筍のように椅子から立ち上がる昔の僕のような少年

プロ野球選手になれず少年期終わるがごとく太陽沈む

キラキラと光るカードを集めいし少年の日の友を忘れず

ソプラノでありし少年の日の声はもう戻らないもののひとつだ

ここで歌われている「少年」と、それに付随するものはみな、すでに失われてしまったものなのです。この歌集を読むぼくたちは、萩原さんの少年時代が決して順風満帆なものではなかったことを知ってしまっています。ところが、少年時代が「喪失」と結びつけて歌われることで、逆説的にそれへの強い執着心を感じさせてしまうのです。

 

ここまでくると、やはりぼくは石川啄木の歌を思い出さずにはいられなくなります。

※引用部分では行の切れ目を「/」であらわしています

己(おの)が名をほのかに呼びて/涙せし/十四(じゅうし)の春にかへる術(すべ)なし

不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心

夜寝ても口笛吹きぬ/口笛は/十五の我の歌にしありけり

飴売(あめうり)のチャルメラ聴けば/うしなひし/をさなき心ひろえるごとし

石川啄木『一握の砂』

次の「労働の歌」でもそうなのですが、萩原さん自身は啄木と並んで読まれることは本意ではなかったのかもしれません。しかし、『滑走路』における年齢や世代、そしてそれに伴う喪失のとらえ方は、やはり啄木の感傷的な青春歌に通じる部分があると思うのです。

 

③労働の歌

労働の歌は、『滑走路』の根幹をなすものですが、それがすべてではないことは「恋の歌」「青春の歌」を読んでもらえればわかると思います。

それでもなお、この歌集の「労働の歌」がメディアによってクローズアップされたことは、当然、同じような環境の中で救いの言葉を探している読者が多かったことを示しているのでしょう。萩原さんは(意図したかしなかったかはわかりませんが)、そうした厳しい時代を厳しい立場で生きぬく若者たちの「代弁者」となってしまったのです。「代弁者」としての萩原さんの歌は、まさにそれを、その状況を誰かに共有してもらいたかったのだと読者が思う部分を、的確な言葉で綴っています。

 

屋上で珈琲を飲む かろうじておれにも職がある現在は

ここにいるあいだはここで与えられる仕事こなしてゆくのみである

非正規という受け入れがたき現状を受け入れながら生きているのだ

今日も雑務で明日も雑務だろうけど朝になったら出かけていくよ

「おれにも職がある」という現実が、「屋上で珈琲を飲む」自分をこの世界につなぎとめている。「与えられる仕事」をこなしてゆくことで、自分は「ここにいる」ことができる。「非正規」に甘んじている自分も「生きているのだ」と肯定しようとする。「今日も雑務で明日も雑務」だと思いながらも、それがある限りは朝を迎えて出かけることができる。萩原さんはここでも「恋の歌」のように、非正規である自分をさらけ出し、必死に鼓舞しているように思います。決して「代弁者」などではなく、自分のために率直に歌っているだけなのです。

 

非正規の友よ、負けるな ぼくはただ書類の整理ばかりしている

シュレッダーのごみ捨てにゆく シュレッダーのごみは誰かが捨てねばならず

コピー用紙補充しながらこのままで終わるわけにはいかぬ人生

夜明けとはぼくにとっては残酷だ 朝になったら下っ端だから

誰でもできる仕事だからこそ、誰かが、自分がやらなければならない。でもその仕事をやらされている自分は「下っ端」だから、朝が来るのが怖いという。労働によって立場が生み出され、立場が人をその労働に固定する。やがてそのレールからもこぼれた人が出てしまい、正社員としての仕事を得ることがますます難しくなっていく…そんな現代の労働の負の連鎖が、これらの歌から読み取ることができます。

もっとも、萩原さんにそれを告発するような、つまり、労働者の側からそうした理不尽を描写することで、社会に変革を迫らせるような意図はあったのでしょうか。筆者はやはり、萩原さんはどこまでもありのままの自分を描いているが、そうして見つめ続けた自分の姿が、「たまたま」社会の中で弱者として浮かび上がってしまう自分であっただけに過ぎないと思うのです。

 

「コピー用紙」や「夜明けとは」の歌は、やはり同じような境遇の読者からの共感を誘ったのでしょう、歌集の刊行当時から大きな話題となりました。これらの歌を読むと、ぼくはSNSで定期的に「バズっ」ている、宇野なずきさんの有名な作品を思い出します。

 

誰ひとりきみの代わりはいないけど上位互換が出回っている/宇野なずき

社会という恐ろしく複雑なシステムの中に放り出された若者たちが、能力によって選別され、常に誰かと代替可能なものとして扱われている。「けど」で結ばれた上句と下句のあいだには、恐ろしいほどの矛盾と断絶があります。

ぼく自身もそうですが、そのなかで人は「上位互換」が出回るほうの世界を生きていこうとしてしまう。あわよくば、自分が誰かの「上位互換」であるように生きたいと願ってしまう。しかし、萩原さんの短歌の本質は、「誰ひとりきみの代わりはいない」世界を生きたいという強い思いに他ならないのではないでしょうか。

非正規であろうと、書類の整理やコピー用紙の補充のような単純な仕事であろうと、そこに喜びや価値を見出し、歌にしていくこと、そうして歌人になりたいと強く願ったこと…。それこそが、萩原さんの表現したことだったのではないかとぼくは思うのです。

 

そして、短いながらも自分の仕事に誇りを持ち、「日本一の代用教員になりたい」とまで言った石川啄木の精神もまた、『滑走路』には流れていると思うのです。

 

④呼びかけの歌

 

抑圧されたままでいるなよ ぼくたちは三十一文字で鳥になるのだ

更新を続けろ、更新を ぼくはまだあきらめきれぬ夢があるのだ

前項では、萩原さんは「ありのまま」の自分の姿を描くことで、たまたま社会の代弁者となってしまった、と書きました。しかし、歌集冒頭近くのこれらの歌には、萩原さんの社会への明確なメッセージが込められているように思います。

「抑圧されたままでいるな」「更新を続けろ」、力強いこれらの言葉に鼓舞されているのは、読者、つまり社会の側の人間と、ほかならぬ萩原さん自身です。誰かや何かに呼びかける形式の歌が非常に多い、これは『滑走路』の文体の大きな特徴だと思います。

 

思いつくたびに紙片に書きつける言葉よ羽化の直前であれ

ぼくたちはほのおを抱いて生きている 誰かのためのほのおであれよ

こころのなかにある跳び箱を少年の日のように助走して越えてゆけ

これらの歌はまず、短歌の技巧的に優れているという点で、歌集の中で存在感を放つ作品になっています。さらっと詠んでいるように見えますが、韻律のバランス感覚を保ちながら、命令形の持つ力強さと疾走感を巧みに生かしている。萩原さんが非常に力量のある歌人であったことを伺わせます。

 

人はみな「羽化の直前」のような言葉を、誰かを励ましたり、救ったりすることができる言葉を持ち合わせている。「ほのおを抱いて」生きているぼくたちは、その「ほのお」を自分のためだけでなく、誰かのために、つまり人を愛するために使うことができる。

「こころのなかにある跳び箱」、それは挫折や劣等感の象徴であるかもしれないけれど、「少年の日」のような力強い助走でそれを越えていくことができれば、また新しい世界が拓かれる。ここには後ろ向きなメッセージは一切ありません。自分のために向けられているそのエールを、呼びかけのかたちにすることで、見知らぬ誰かにもひらいていこうとしています。

 

萩原さんはきっと、人間が好きで、好きだからこそ誰もかもを平等に愛することができる青年だったのではないでしょうか。その愛情は『滑走路』の中で、「ありのまま」を生きる自分に対しても向けられています。ためらわずそれを言葉にすることで、やがて自分を、自分と同じ境遇にある人たちを救うことになることを、萩原さんは知っていたのです。

 

一人ではないのだ そんな気がしたら大丈夫だよ 弁当を食む

このシンプルな作品は、端的にそれを表現していると思います。「ありのまま」の自分に注ぐ愛情を、他人にも同じように注ぐことができること。それはとても美しいことなのです。

 

おわりに

ぼくは生前の萩原さんに一度だけお会いしたことがあります。ある短歌大会で、同じ「選者賞」に選ばれたぼくたちは、会場で隣同士に座っていました。自分の隣にいるぼくより少し年上に見えるその青年が、自分の大好きなこの歌を詠んだ歌人であることに、ぼくはすぐには気がつきませんでした。

 

きみのため用意されたる滑走路きみは翼を手にすればいい

やがてぼくたちは短い会話を交わしました。好きな短歌のこと、互いの結社のこと、授賞式に若手が少なかったので、お互い頑張りましょうということ…。正確な内容はよく覚えていませんが、優しそうなその語り口は、作品の持つ優しさそのもののようで、とても印象的でした。

ぼくは生意気にも、その短歌大会の「大賞」を狙っていて、それが「選者賞」に落ち着いてしまったものだから、その場にいるのは本意ではありませんでした。萩原さんも同じ気持ちだったかどうかはわかりません。しかし、「この人は本当に短歌が好きなんだなあ」ということは、そのわずかな時間の中でもいっぱいに感じられました。

だから、ぼくも短歌が好きだ、その原点のような言葉に立ち返ることができたのは、今思うとあのときの短い出会いがあったからなのかもしれません。

短歌を長く続けていると、結果が出ないことのへの焦りは日に日に募っていきます。歌人としても、社会人としても、自分はこれでいいのだろうかという思いを常に抱えながら、歌を続け、仕事をこなしていくしかない。そんなプレッシャーに押しつぶされそうになったとき、ぼくはまた『滑走路』を読みかえすことになるでしょう。

いま二十代後半のぼくは、これからどんどん萩原さんの亡くなった歳に近づき、そしてあっという間に追い越していきます。一度しかお会いしたことがないぼくに、萩原さんの思い出を語る資格なんてないのかもしれないけれど、そのときが来るまでそれをしっかり胸の中に抱えながら、ぼくはこれからも歌を詠み続けていきたいと思います。

 

空を飛ぶための翼になるはずさ ぼくの愛する三十一文字が

それでは、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

この記事を書いた人

貝澤駿一

1992年横浜市生まれ。「かりん」「gekoの会」所属。2010年第5回全国高校生短歌大会(短歌甲子園)出場。2015年、2016年NHK全国短歌大会近藤芳美賞選者賞(馬場あき子選)。2019年第39回かりん賞受賞。

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