初期の自作を添削してみた

企画

こんにちは。篠田くらげです。

短歌って、基本的なルールが「57577」だけなんですね。季語は要りませんし、「ありけり」「けるかな」みたいな言葉遣いもしなくていいです(してもいいですが)。だから何をどう詠むかは、すべて作者に委ねられています。

ところがこれが難しい。私は最初どうやったらいいのかまったくわかりませんでした。今Twitterや「うたの日」などのオンラインでの歌会を見ますと、初心者の人でも私の目から見て上手いんです。「短歌を始めたばかりです」と言っている人でも、10年くらい短歌をやっていそうな歌を詠む人がたくさんいます。

私が短歌を始めたのは2007年ですが、その頃は圧倒的に下手でした。「同じ日本語を使っているのに、上手い人と自分では決定的に違う、なぜだ???」と不思議でしたし、悔しかったです。

いま自分が上手くなったと言うつもりはありませんが、多少短歌に慣れたのも確かだと自分では思っています。

そこでなんですが、当時の私が詠んだ歌を今の私が見て、どこがよくないか指摘したらどうでしょうか。そもそもはじめから上手く詠めちゃう人間は上手く詠めちゃう上、ネットでも歌会でもたいてい自信作が公表されるわけですから上手くない歌を目にする機会は貴重です。

今の私の目から見て失敗している歌を参考にしてもらって、特に初心者だと自分で思っている方が自分で納得できる歌を詠むヒントを提示したい、ということで、身を斬る思いでこの企画を始めました。よろしくお願いします。

1首目「慣用表現すぎる歌」

それでは1首目です。

階段をしゃにむに登りふと思うどこに向かって歩いているんだ

まず問題は「しゃにむに」みたいな言葉は一種の慣用句なので、なるべく使わない方がいいということです。慣用句的なものは表現を効果的に見せるために考え出されたものではあります。「足が棒になる」は、「つかれた」と言うだけではインパクトが弱いので、「すごく疲れたんだぜ」と言うために作られた表現です。

しかしそれを短歌の中で使うとむしろ効果が削がれる可能性が高いんです。もっと日常的でさりげない言葉を使う方がかえって効果的であることが多いように思います。

それから、この歌は「思ったことを、思った状況で、そのまま言葉にした歌」なんですが、それは普通過ぎです。思ったことをそのまま歌にするのは構わないとして、そこにはそれなりの表現上の工夫が要るはずですが、この歌からはそれが感じられません。

内容面を言うと、全体として「階段を登るのはまるで人生のようだ」という内容になっているのも不満です。どんなもの(ここでは階段や、それを登る自分)を見ても、「これは人生のようだ」という感慨を抱くことは可能で、しかも平凡です。自分の気持ちを詠んだ表現として自立できていないと言わざるを得ません。

平凡な気持ちを詠んで成功することはあり得ますが、やはりそこには工夫が要るんです。

もうちょっと技術的なことを申しますと、「登る」と「歩く」のイメージが衝突しているために全体として言いたいことがブレているのも問題です。ここでは「上に登る」と「遠くまで歩く」のイメージが微妙に、しかし大きく異なっていて、両方を詠むことはおそらくできないんです。

使われている動詞と動詞がぶつかって全体としてぼやけていないか、というのはけっこう大事な話で、この歌の場合はぼやけていると思います。

2首目「短歌で小説は書けない」

別れよう切り出されるのがこわくって誘い続けた映画のパンフ

この歌は、短歌を使って小説を書こうとしてしまっている点が最大の問題です。小説を書きたければ小説を書く必要があって、短歌と小説では得意なことが違うんですね。

この歌は「『別れようよ』と恋人に言われるのではないかと不安になり、大して見たくもない映画に何度も誘ってしまうのだ、もしくは昔そうだった」ということを詠んでいるんだと思いますが、それならそういう小説を書くべきなんです。短歌と小説ではどちらが素晴らしいかという話をしているわけではなくて、やれることが違うだけです。ですから小説を書くつもりで短歌を書くと、必ずしもうまくいきません。

そして「こわい」はこの場合は不適切です。「感情をそのまま表す言葉(うれしい、かなしい、など)はそのまま使うな」とは短歌のアドバイスとしてよく言われることですが、もちろん使って成功している作品もあります。

しかしこの歌に関して言うと、この「こわくって」は感情ではなくて、感情の説明です。感情は描写すべきものであって、説明すべきものではないんです。こういうことを思うのは「こわくって」の「て」にも原因があります。これは意味としては「こわいので」なんですね。理屈として述べてしまっている。「こわかった」の方がどれだけいいかと思います。

短歌は評論でも報告書でもないので、理屈をつけて説明する必要はまったくないというか、それをやろうとすると大抵失敗するといえます。

たとえば、

「別れよう」切り出されるのがこわかった 誘い続けた映画のパンフ

こうするだけでもけっこう違うでしょう。カギカッコでイメージを強めるとともに読みやすくしたのが1つ。それから1字空けと体言止めでパンフに何かを語らせる手法をとっています。元の歌より短歌っぽくなっている、はずです。

3首目「作者が読者に押しつけている歌」

あの時間無駄だったとは言わせない皆で買った学業御守

言いたいことはわかるんですが、言いたいことが強すぎて読者が疲れちゃう、という例です。「言いたいことがないのに創作はできないだろう」と言われたら、それはそのとおりです。

しかし「これを言うためにこの歌を詠みました」があまりにもはっきり出ていると読者はつらい。読者からすると、歌を読んで自分が「なるほど、いい歌だな」と思うことができないので嫌になっちゃうわけです。「作者に読まされた」という感想を持ってしまうおそれがある。こういうのは短歌というより標語になっていると言えましょう。

歌に即して別の言い方をすると、「皆で学業御守を買った」という事実が事実として描かれていなくて、自分の主張を言うための添え物になってしまっているということになりましょうか。

短歌は「こういうことがあった」「こう思った」を上手に書けば十分自立できるんです。そこで作者が読者に「わたしは!あなたに!こういうことを思ってもらいたいです!」と迫るのは逆効果になってしまうおそれがあるんですね。

12年ほど前に詠んだ歌から持ってまいりました。今日はこんなところにしておきましょう。みなさんのお役に立てていますように。それではまたお目にかかります。

この記事を書いた人

篠田くらげ

2007年、偶然聞いたラジオ番組をきっかけに短歌を始める。「未来短歌会」所属。「アポロ短歌堂」「嶌田井書店」メンバー。普段は短歌を詠んだり、書評を書いたり、文学フリマに出たりしています。

Twitter @samayoikurage

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