現在、短歌結社「かりん」に所属する小田切拓が結社に入会してから体験したこと、その後挑戦してみた新人賞のことなどをシリーズにして話していきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
*「短歌結社とは」?
短歌の掲載誌を発したり歌会などの活動を行う集団。主に主宰者と他の選者などの方が中心となって活動する。その人に合う結社選びをすると、自作の成長や豊かな人間関係にもつながる。
前回のはじめてオンライン歌会に参加した話はこちらから。
かりんの会に入り程なくして、結社の若手たちによる若月会(みかづきかい)が結成された。わかつき、ではなく、みかづきである。
まず、どこまでが若月会なのかという線引きの説明が必要だろう。
2015年にかりんの会の結社誌の中に若月集(みかづきしゅう)という欄が出来た。
かりんの会員は誰もが
①三欄
②二欄
③1A欄・1B欄
④馬場欄・坂井欄
のどれかに所属していて、①→②→③→④の順に昇欄していく(1Aと1B、馬場欄と坂井欄の間は同等の実績とする)。
その中にベテランの秀歌を集めた「山花集」と若手の秀歌を集めた「若月集」の欄があるのだ。
「若月集」は、かりんの会が用意してくれたアピールの場の意味も込められている。若手の品評会の欄なのだ。
「若月集」では、若手の出した月詠(毎月出す連作。毎号10首まで出せる)の中から優秀な歌を掲載する欄だ。良い歌を出した人が巻頭に掲載される。
若月集でも良い連作は最初の方に掲載される。推測だが、それが後押しで総合誌からオファーがくることもある。僕もそうした経験に預かった。
初期から「若月集」に掲載される人がのちの若月会メンバーの中心になった。
更に言えば、具体的な基準は以下の①と②である。
①かりんに入ってキャリアが浅い
②20代〜40歳くらいまで
とりわけ②に当てはまる人が若月。僕のように20代で入会した時に若月の対象だと、そのまま40歳手前くらいまでは若月としての活動に参加する人も多い。
しかし明確には決まっていない。
歌歴が長くとも、かりん入会が最近の人は若月欄に掲載されることが多い。
鈴木加成太さんのように角川短歌賞を受賞後に入会した人もいて、彼は若いこともあり今でも若月集に掲載され、実力通りに巻頭の常連である。
そして40歳になった時のキャリアで次にステップアップする人が多い。
2019年に川島由佳子さんが『感傷ストーブ』を刊行した。そして去年(2023年)の12月に郡司和斗くんが『遠い感』を上梓し、今年2024年3月26日に丸地卓也さんが『フイルム』で続いた。
まずは丸地卓也さんの歌集『フイルム』について。
丸地さんは年齢こそ僕より4歳上だが、入会年という意味では僕にとって若月会で唯一の同期である。
そして、自分と丸地さんは何から何まで逆だと感じていた。
歌人として、人として、何もかもが。
丸地卓也は、背負っている。背負いながら生きて、歌を詠んでいる。そう感じた。
角のあるめがねの枠を勧めたり長男らしいと母は言いつつ
八十年の歴史しか担うことできぬわが肉体をしゃぼんでこすり
万歳はたぶんするだろう戦地にもたぶんいくだろう長男だから
/丸地卓也『フイルム』
自分が歴史を担う一員であることに意識的であり、社会にコミットしている。
『フイルム』を読んで目に留まる「長男」という言葉に作者の真面目さが託されているのも印象的だ。
僕も一応は長男だが、自分の歌に「長男」と使ったことは未だかつてない。「次男ならあの女性に相手にされたかなぁ」と詠んだことはあるが。
自分の話になるが、僕の歌は良く言えば自由な発想であり、気まぐれに歌を詠んでいる(それも無意識の中の意図的なものだと後述する)。
その分、出来にムラがあり、安定していない。
しかし、丸地さんは安易な歌を詠まない。安易に言葉を並べて、それで片付けない。
報道カメラマンにも似た厳密さで正確に世界を映し取ろうとする。
だから時として「真面目だから、もう少し外して詠んでみたら」と言われる丸地さんも見てきた。
しかし『フイルム』を読んで再確認した。丸地卓也は、現代の若者が背負う責任や生きづらさから一歩も逃げようとしない。
丸地さんの歌の中に、戯画的な風刺は少ない。一方的に好意的な解釈をさせようとする歌はもっと少ない。
丸地さんは歌を通して「こう解釈してください」とはハッキリと明言しない。そこに浮かび上がるのはどこまでも「真実」なのだ。
心電図の音しかしない夜だねと屋上で煙草吸う看護師は
病室のカーテンの向こうから朝は缶コーヒーがわずかに香る
煙草を吸う看護師も、缶コーヒーの香りも、丸地さんは写真を写すように正確に詠む。そして、その厳密な精度で映る景色から作者は、この景色で何を思うか、届いているか、と問いかける。
昔、若月会で座談会をした。その一部始終が貝澤駿一君のnoteに掲載されている。
理に勝るユニークさを、丸地さんはもっと開拓すべきでは。
僕はそう話したが、それは報道カメラマンに対して
「もっとデコりましょうよ。一緒にプリクラ撮りませんか?」
と言っていることと同じなんだと思った。歌人にはそれぞれのアプローチがある。そこに気付いていなかった。
次は、郡司和斗君の『遠い感』について。
郡司君の歌には、お笑いの大喜利の着眼点のような面白さがある。皆が郡司君の歌のここが良い!と語りたくなる。
そして、彼の良さを語ると自分の感性がレベルアップした気がする。それは、作者がそれだけ読み手に気を遣っている証拠である。
例を挙げる。
献血のポケットティッシュくばる人の籠いっぱいの軽さを思う
潰されて染みになっても毛虫だとわかる 毛虫はたいしたもんだ
オレンジジュース同盟、いいですね、と言ったIさんはいま元気だろうか
/郡司和斗『遠い感』
「籠いっぱいの軽さ」という言葉、命の重みを毛虫を用いて軽快に伝えるセンス、「オレンジジュース同盟」に至るまでの物語を想像させる余地など素晴らしい。
葬式に二回は行ったことがある 海まではあと何駅だろう
上の句と下の句の間に余白と余韻がある。それは、彼がもう一つ取り組んでいる俳句に通ずるものかもしれない。
拗ねていない、逃げてない、自らが作った等身大のフィルターで世界や言葉を濾過して透明感を作る。スマホでパステルカラーに加工する様に、スッと苦もないかのように郡司色に染めてしまう。
40ページからの連作「顔にさわる」の歌の一連、祖母との別れも、栞で取り上げられた歌も、どんなことを詠んでもそこに甘えがない。
それは一番難しい生き方であり、詠み方である。
おばあちゃんの頬はつめたく壁越しに聴こえる鬼滅の刃OP
ふつうにもっと長く生きられたんだけど、ふつうにもっと 石油ストーブ
ケルベロスに生まれてみたい笑うこと泣くこと怒ること同時にできる
変な眠りが変な明日をつれてきた昨日のことを思い出す今日
祖母の亡骸の詳細な描写、泣く家族の描写、内面の吐露、「悲しい」などの言葉を一切使わない抑制された挽歌である。
120~121pに9首に渡って一つの若者の語りとなる「そういう人」は自分に向けられていると感じた。少し長いので割愛するが、馬場あき子先生も雑誌の対談で取り上げているので『遠い感』をお持ちの方は是非詠んでみてほしい。
他にも多くの同期がいる。
TANKANESSでもお馴染みの貝澤駿一くんは、同い年で入会時期も近い。
サッカー部三十四人がいっせいに空を見上げる ジェット機の音
三年間担任したのになつかないユウタがお辞儀で僕を去っていく
/貝澤駿一
前者はかりん賞受賞連作「遠い日の指揮者の記憶」から、後者は今月の5月号から。
彼の歌に多くみられる教師詠を選んだが、彼は大学院を卒業してから教え子を見守り、導く仕事に向き合ってきた。
どちらの歌も主語は教え子で、作中主体は「サッカー部三十四人」や「なつかないユウタ」の眩しさを見ている。僕は自分を主語にして読むことの方が多いから、貝澤君が俯瞰した目線で歌を詠めることが羨ましい(もちろんこれは彼のワンパーツでしかない)。
貝澤くんは千葉聡さんを敬愛している。青春の煌めきを感じる歌は、その爽やかな影響を感じる。最近増えた家族の歌などからは微笑ましさも見えるが「すべてをぶちまければポエジーになる」と安直に思っていない所に彼の誠実さを感じる。
川島結佳子さんは入会期が近く一番の出世頭かもしれない。
「お前はもう、死んでいる」とか言いながらあなたと食べる胡桃のゆべし
水面を覗けば錦鯉が来て食欲による波紋をつくる
アメリカから永遠に借りたものとして壁一面に戦争画あり
/川島結佳子
一首目の様な強烈なフレーズの引用、お笑いへの関心も目立つが、その面白い歌を支えているのは二首目、三首目の端正な歌を詠める技術に他ならない。
そんな同期と比べた自分はどうなのか。
僕は道化を言葉遣いでペンキを塗る、言わば丸地さんや郡司君の濾過とは逆をしてきた。
自分を戯画化する様にペンキを塗りたくるピエロのようなことを繰り出すことが多かった。
たとえばこんな歌がある。
握った手ほどかれ「さよなら」言われた日〝俺版〟金色夜叉が実写化
小田切くん/マニュアル本を読んだでしょ/いきなり車道側を歩くから
/小田切拓
どちらも「若月集」に掲載され、同期の反響が大きかった歌だ。郡司君から「車道を見ると、あの歌と小田切さんを思い出します」と言われた。
僕の歌は油絵の具や自前のスタンプやシールを貼る歌、時には壁そのもの(素の自分)を意図的に露出する作風だと思う。
自分で言うのもなんだが、誰もが皆そういった戯画の絵の具やスタンプを持っているわけではない。だからこそかりんの先輩が応援してくれて、同期や後輩も自分を尊重してくれているのだと思う。
しかしそれは、根本的に人生に向き合うことのできない弱さの裏返しだとも思う。そしてもう30代で別れなければ限界だと思う。
自分を探して時間を潰したり、何かから逃げること自体が自己愛の発露に他ならないからだ。それは子供がすることだ。
あの石川啄木だって、長生きしていたら作風を変えないことには行き詰まっていたはずだ。
生き延びたものには、殻を破る責任がある。
丸地と郡司作品は僕と真逆のそれぞれの誤魔化しのなさ、生き方そのもので言葉を濾過させている。そこに逃げや甘えは許されない。
対して僕は「面白いアマチュア」かもしれない。
でもアマチュアであり、プロではない。
プロフェッショナルや才能の定義とは、キラリと輝く感性が備わっている、ではない。生き方や覚悟を含めて、その人の才能となり歌人としての格になるのだ。
ちょうどこの原稿を書いている最中に小説家の河野多恵子と山田詠美の対談本『文学問答』を読んだ。
そこで河野は山田に小説家の才能の定義についてこう語っている。これは詩歌にも言えることだと思う。
一言で言って、もちろん才能でしょうね。私はよく言うんですが、才能には狭義の才能と広義の才能がある。広義の才能っていうのはスノッブな意味じゃなくて、頑張る力とか吸収力とか。直木賞のとき、あなたが堂々としていらしたのも、広義の才能。狭義の才能というのはいわゆる文学的才能。文学的な才能だけではだめだと思う。そして、広義の才能っていうのは、心がけ次第でかなり増やせるものでしょう。
狭義の才能とは、純粋な文学的才能。これだけでは駄目だそうだ。
広義の才能とは、頑張る力、吸収力を含めた総合力であり、それは心掛け次第で増やす事、広げる事が可能であると語られている。
僕は、丸地卓也と郡司和斗、多くの同期の生き方や覚悟を含めた才能、歌人としての格を学ばせてもらった。同期に学び、勇気を貰い進んできた。
今、僕はそのままの自分で対峙することが迫られている。
短歌の同期はただのライバルでなく、生き方を共鳴していく同志なのだ。
僕は今まで、何かから逃げ出すために、逃げ出すための歌を詠んできた。
特に中学時代いじめっ子に真正面から立ち向かい、心身共に10年近く不調が続いてからは、すべてを出し尽くすことが怖くなった。
それ以来は「成長過程を見て下さい」と未熟なままのアイドル気取り。喩えるなら、
「東京まだまだ行けるかぁ〜!全部出し切るぞ〜!」
と若手の皆で叫んでも、僕本人はいつも全て出し切らず何割か温存してきた。決してセンターに立つことは目指さず、キワモノキャラを演じた。フロントのさらに脇の、ある意味で美味しい位置にいて、ヘラヘラ笑っていた。
その癖、本心は隠せず、家族のことや友人のことを無邪気に自慢して、自分の立ち位置も分からずにのらりくらりとステップを踏み続けた。
それが精一杯だった、と書いたら「甘え」だと言われるだろうか。
自分の意図が皆に気づかれていると知りながら、どうすることもできないと深い所で萎えていた。
その間に同期は可愛がられることから卒業していた。ある時は人付き合いというひな壇で、ある時は社会人として舞台に上がりいろんな役割を演じて逞しくなっていた。今はその逞しさが、とても眩しい。
これからは、何かを掴まえるために歌を詠みたい。大切なものはもう、目の前にあることを知っていることはずっと前から分かっていたはずだから。
すぐには出来ないだろう。生来の性分として四半世紀以上もバレバレの仮面をつけて生きてきたのだから。
でも……「でも」に続く言葉を書きたいと思う。出来れば三十一文字で。
長過ぎたフリーター生活から一転、漸くきちんと就職して懸命に働いているだけで生き生きとし始めた自分の短歌たちが「やってできない訳無いだろう」と逞しく笑い始めているから。
この文章を書いた人
小田切拓
92年生まれ。「かりん」所属。18歳の時、手に取った雑誌で短歌投稿コーナーを見つけ、歌を詠み始め楽しさを知る。友人が引くほどのサッカーオタク。第29回現代学生百人一首入選。第42回かりん賞受賞。第66・67・68回角川短歌賞予選通過。
Twitter:@rKGlC6f6HEUiU2r
note:https://note.com/takuan12/
自選短歌
落ち込んで「辛い」とぼやく僕の手を祖父が黙ってギュッと握った
記事内で言及した短歌の本
短歌のターニングポイント バックナンバー
短歌のターニングポイント<1>〜はじめて結社の見学に行った日〜
短歌のターニングポイント<2>〜はじめて結社の全国大会に参加した日〜
短歌のターニングポイント<3>〜はじめて結社内の新人賞を受賞した日〜
短歌のターニングポイント<4>〜はじめて学生向けの新人賞を受賞した日〜