まどろみの中で見た夢の話−笹井宏之『てんとろり』との出会い

エッセイ

夜更けの都市高を走るバスに揺られながら、まどろみのなかで見た夢の記憶を、僕は引きずって生きている。

 

これはまだ福岡で、大学最後の一年を過ごしていた頃の話。

 

日が昇っては沈み、出会っては別れ、生まれては死ぬ。永遠なんて幻想で、思い出にならない一日が積み重なって、歴史に残らない一生が終わる。

 

絶望ではないけれど、なんとなく空虚。

 

いくつになっても人生に慣れない。生きる意味って一体なんなんだろう。

 

ああなんてモラトリアム。

 

僕が行くべき場所はどこ?

僕が大事にすべきものは何?

 

敷かれたレールの上を歩くように、半ば受動的に決めてしまった就職先。

そこでその答えが見つかるとも思えない。

 

だからといって、衝動に任せて全てを投げ出してしまえるような破天荒さは持ち合わせておらず、結局僕はどこまでいっても正気のまま、レールの上を歩み続ける。

 

せめて考えは後にして現実逃避遊んでいたいのに、どうして時間って進むんだ。現実は僕を逃がしてはくれない。

 

いっそのこと、風にでもさらわれたら良いのに。人生から遠い世界へ。何も考えずにただ揺蕩っていられる世界へ。

 

 

そんな焦燥の日々を過ごしていたある日の大学からの帰り道のこと。

 

僕が通っていた大学から自宅までは、バスで約1時間かかる。

 

大学は福岡市の端の方にあり、山を切り開いて建てられているため、最初の方こそ田んぼ道や閑静な住宅街が続くものの、やがてバスは博多港の海上に架かる都市高へ突入し、海の向こうには福岡市の都心部が一望できる。

 

すっかり夜も更けきった帰り道、しばらくは閑散とした景色の続くバスの中、僕は例により焦燥に囚われいた。心の中に羽虫が一匹入り込んでいるような落ち着かない心境。それでも一時間の道程をどうにかやり過ごそうと文庫本を開いてみるが、縦に並んだ文字の羅列をただいたずらに目で追っているだけで、ストーリーに没入することもできず、すぐに閉じてしまう。イヤホンを耳に突っ込んでiPhoneのミュージックアプリを開いてみても、アーティスト一覧の上で人差し指は行ったり来たり、迷子になった指を見かねて結局イヤホンを外してしまう。

 

そうこうして夜を持て余しているうちに、そんな心持ちにあっても睡魔というのはしっかり襲ってきてくれるもので、コーヒーに垂らしたミルクの一滴が、抵抗もできずに力なく淀みながら黒い水面に溶けていくみたいに、意識がふわふわと夜に溶けていく。

 

だけど眠りに落ちきってしまうことはなく、眠っているのか起きているのかもわからないような、夢と現実の間を流れるまどろみの川を漂いながら、薄目を開けて窓の外を流れていく夜を見つめていた。

 

やがて、バスは海上を架ける都市高へと吸い込まれた。まどろんだ目に映る海をはさんだ夜更けの街は、仄明るい靄に包まれ、その奥に青や赤、大小さまざまな光の粒が、今にも零れ落ちそうに朧げに灯っている。そして街から零れ落ちた光の粒をやさしく掬い上げているかのように、海面にも光が宿っている。

 

おとぎ話の世界の星空みたいだった。それはあまりにも幻想的で、僕はこれが現実の光景なのか、夢の光景なのかわからなくなる。混濁した意識の中で見た不揃いな光たちの乱反射は、確かにこの瞳に映った光景なようにも思えたし、まぶたの裏のスクリーンに映写機が映し出した映像のようにも思えた。

 

夢と現実の狭間に揺れる光の街は、確かにこの世界にあって、だけど僕の生きる現実からは最も遠い場所で、それはつまり、死に最も近い場所のように思えた。沈む夕日が水平線を溶かすように、2色の絵具で塗り分けられた境界線を指でこすって滲ませるみたいに、夢と現実の、あるいは生と死の境目に朧げな靄がかかった、そんな世界だった。ほおに伝わる窓の冷たい感触だけが僕を生へとつなぎとめる唯一のもので、そこにある光の波長に完全に共鳴してしまったら最後、二度と戻っては来れないような危うさを感じつつ、どこか違う世界に行きたかった僕は、それでもいいような気もしていた。

 

だけどそうしているうちにバスは見慣れた街の、いつものバス停にたどり着いて、悲しいのやらほっとするやら、そんなどっちつかずの感情と少しばかりの夢の記憶を自宅へと持ち帰った。

 

その記憶も微かな手触りだけを残して、冷蔵庫やら洗濯機やらの放つ生活の香りに、簡単にかき消された。

 

 

それから月日は流れ、微かな手触りだけを手掛かりに、現実から逃避するようにあの日まどろみの中で見た夢の気配を探していたある日、僕が蔦屋書店の短歌コーナーで何気無く手に取ったのは、笹井宏之さんの歌集『てんとろり』だった。

 

『てんとろり』に収められている最初の連作「飛ぶもの」を目にした時、僕はその場から動けなくなった。

 

霊園にただ一度だけ鳴らされた無名作曲家のファンファーレ

 

辺りを歩く人の足音や、話し声、店内BGMが耳から遠のいていく。

 

幽体離脱かのごとく、意識だけが身体から抜け出し、空を揺蕩いながら、やがてどこかとても遠い場所へと辿り着く。

 

ここは、どこだろうか。

 

霊園だ。

 

僕は空から霊園を眺めている。

 

そこでただ一度だけ鳴らされる、無名作曲家のファンファーレ。

 

それらがこの世界において何を意味するのかはわからないが、なぜか不思議な優しさを感じてしまう。古いフィルムカメラで撮った写真みたいに、靄がかった仄明るい光の層に包まれていて、辺りはその色を写し取ったような暖かい空気で満たされており、僕の生きる世界とは違う、もっと心地いいスピードで時間が流れている。この現実世界に存在するのかもしれないが、普通に旅をしても決して辿り着くことはできない、幻の場所。そんな世界を、決してその世界に干渉する事なく、僕の魂だけが俯瞰している。

 

天からのみずに名前をつけている 羽化をしたばかりの妖精は

星座から動物達がぬけおちて次々と広場に横たわる

 

次々と提示される、どこか遠い場所の情景。その度に僕は、優しい時間の流れるその世界描写に、魂を没入させてしまう。相変わらず「羽化をしたばかりの妖精」や「星座からぬけおちた動物達」がその世界において何を意味しているのかはわからないが、きっと意味なんてないんだろうという気になる。それほどまでに自然に、彼らはその世界の住人として存在している。

 

僕たち人間はこの世に生を受け、人と出会い、そして別れ、いずれ死んで行く。そんなふうに果てなく繰り返される生と死の営みがこの世界を紡いでいて、そこに意味を見出すことなどできず、僕たちはただ、その永さを感じることしかできない。

 

「妖精達が天からのみずに名前をつける」行為や、「星座から動物達がぬけおちる」事象は、僕たちでいうところの生と死に代わる、妖精や星座たちの営みであり、その意味なんて、きっと彼らもあずかり知らないことなんだろう。

 

ほしのふるおとを録音しました、と庭師がもってくるフロッピー

欠けているぶぶんの月が廃校の棚に入っているのは秘密

 

笹井作品には、物語の登場人物としての「私」がいないことに気付く。作品の中での「私」は、ただの来訪者であり、俯瞰者。あくまでも、ここではないどこか違う世界の風景を眺めているだけだ。

 

僕がこれまでに読んできた多くの短歌では、「私」のなんらかの心象モチーフとして、「妖精」や「ほしのふるおと」といった異世界の存在が、こちらの世界に輸入されていた。だからそれらの存在が、「私」にとって何を意味しているのかを探る工程が必要だった。

 

だけど、笹井作品で存在の意味を考えるのは、きっと不毛な作業なんだろう。

 

異世界の存在を輸入しているのではなく、その異世界そのものへ旅をした結果、思いがけずそれらの存在に出会っているのだから。

 

逆に妖精が僕らの生きる世界を訪れ、僕ら人間が存在する意味や、繰り返される生と死の営みの意味を問われたとしても、僕らがその答えを持たないように、僕らも笹井作品の中で訪れた世界で、その世界の住人に問いを投げかけるなんてきっと野暮なことで、その世界に吹く風や、空気の暖かさを、ただ感じることしかできないし、きっとそれだけでいいのだろう。

 

そこは、自らに生きる意味を問うてしまう自分自身から逃れたくて、ずっと探し求めていた場所だった。

 

 

「飛ぶもの」を読み終えた時、僕は泣いていた。

 

ここで読み続けてはダメだ。

 

てんとろりを手に急いでレジに向かい、僕は書店を後にした。書店からの帰り道、連作「飛ぶもの」を読んだほんの一瞬の時間で、永遠を感じるほどの悠久の時間を旅したような、僕はそんな感覚に陥っていた。そして旅をしたその場所には、覚えがある。

 

生から最も遠い場所。

 

僕の生きる現実から逃れたくて、手を伸ばしても、届かなかった場所。

 

そう、あの日バスの中で見た、あの夜更けの街だ。

 

また同じ時間帯にあの都市高を通ったって、きっともう二度と見ることはできない、あの一瞬にだけ現れた、光に包まれたあの幻の街だ。

 

 

「てんとろり」に出会ってから数年が経った今でも、文庫本の上で目が、iPhoneのミュージックアプリの上で指が、迷子になる。

 

生と死、それらを一直線に結ぶ時間。そんな法則に支配されるこの世界から逃げ出したくなる。

 

あの日まどろみの中で見た街を探してしまう。

 

そんな時、僕は「てんとろり」を開き、こことは違う法則によって紡がれる世界を旅する。

 

「天からのみずに名前をつける妖精」も、「星座からぬけおちる動物達」も、あの光の街にいる気がするのだ。

 

この記事を書いた人

大庭 有旗

93年生まれ。文章を書いたり、短歌を詠んだり、お酒を飲んだりします。お金がない。

note: https://note.mu/gustrongerr
twitter @gustrongerr

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