僕が短歌結社に入るまで<1>

エッセイ
現在、短歌結社*「かりん」に所属する小田切拓が、はじめて短歌を作ってから短歌結社に入るまでのことを記したエッセイを3回に分けてお送りします。

*「短歌結社とは」?

短歌の掲載誌を発行したり歌会などの活動を行う集団。主に主宰者と他の選者などの方が中心となって活動する。その人に合う結社選びをすると、自作の成長や豊かな人間関係にもつながる。

 

僕が短歌結社に入るまで<1>短歌を作ったきっかけ〜「考える人」 

初めて短歌を作った時、僕は空っぽだった。

小さな頃からこまっしゃくれた、本で知った言葉を偉そうに話す嫌味なガキだった。
しかも趣味嗜好が変わっていた。平成初頭生まれにもかかわらず、ポケモンもワンピースもそれほど興味がなかった。好きだったのはたまごっちと『集英社・世界の歴史』。今にして思えば「人と違う趣味を持つ自分」に酔っていただけかもしれない。癖の強い少年だったことは認めざるを得ないと思う。

しかしそれでも、常に友人には恵まれ、先生はほめて伸ばしてくれて、家族仲も最高な文句なしの小学校生活だった。
風向きが変わったのは中学生からだ。見事に中二病をこじらせて、友人とは疎遠になり、友達のいない同士でつるんでいたらそいつはいじめっ子だった。
陰湿ないじめを受け、先生に相談したら「必ず守るから、このことは誰にも話さないでほしい」と言われた。今にして思えば、いくらいじめを受けていたとはいえ、一方の生徒だけの肩を持つことはご法度だったのだろう。

紆余曲折を経て、そのいじめっ子をただ黙って無視するように先生から言われる。いじめっ子は、僕が誰かと話すと割り込んできて、僕は話す人がいなくなる。

クラスの皆からは「仲よくすればいいのに」と言われた。裏でいじめを受けていることを誰にも説明できず、辛かった。そして、次第にクラスから孤立していった。

その頃から、教室に入ることが段々怖くなり始める。高校に入学したときには完全に教室にいることが出来なくなった。

かくして、高校は即、休学からの退学。気持ちの持って行き場がなく「華の十七」も暗いままに過ぎた。家族は心配し、再び親しさを取り戻した友人たちも僕に気を使う様になった。

そんな風にして僕の十代後半は過ぎていった。本を読むことは好きだったので、よく真昼間の書店で来客用の椅子に座り、ゆっくり書籍や雑誌を読んだ。書店の他にも、平日の空いた図書館や飲食店、昼時のテレビを楽しめたのはせめてもの救いだった。

そして18歳の春。僕の敬愛する作家・村上春樹のロングインタビューが「考える人」という雑誌に掲載されることを伯母から聞いた。伯母は、インタビュアーを務めた松家仁之(当時は新潮社の編集者、今は小説家として活躍)と同じ大学の新聞部で、当時は線の細いナイーブな青年だったという。だからあなたもきっと大丈夫よと言われた。僕がナイーブかはさておき、その「考える人」を読んでみたくなった。

さっそく僕は書店に行った。時間ならたっぷりある。おしゃれな表紙と重厚な誌面に久しぶりに心ときめいた。

インタビューのはじめを読み、「これは買いだな」と思っているうちに他の連載も気になった。かなり著名人がいる中「俵万智」という名前が飛び込んできた。コーナー名は「考える短歌」である。どうやら、読者の投稿した短歌に俵万智さんが添削をしてより良いほうへと導くという趣旨らしい。

冒頭に戻るが、一片の野心も、力強いエネルギーもなかった。ただ、雑誌に載っている短歌を読んで、自分も一首詠んだ。本当にそれだけだった。

こんなにも哀しみ抱え生きてても授業に出れば「春はあけぼの」

不思議なものだ。当然僕はその当時、授業を受けることはおろか教室にいることもできなかったのだ。それでもこの一首は象徴的だった。僕の気持ちに残っていたのは「こんなにも哀しみ抱え生きてても」この世界で生きていくしかないという一種のバネのような意地だったのだと思う。そして「悲しみ」ではなく「哀しみ」と表記したのがこの歌唯一のこだわりだった。この歌はのちにペンネーム「たく」で応募することになる。

「やせ我慢」と「哀愁」は、僕の歌の根幹をなす主題として今も生き続けている。そしてこれからは自己憐憫から抜け出したいと思っているのだけれど、それはまた今度の話。

その後、高卒認定試験に受かり、大学に合格した。今までの辛い日々が報われた気がした。家族も親類の人たちも、友人たちもとてもとてもホッとしていた。今では自分のことでいっぱいいっぱいになっていた自らを恥じている。

そして伯母夫婦が大学合格のプレゼントにくれたのは「考える人」一年分の定期購読だった。僕は夢中で読み、「考える短歌」に応募するようになった。

そして、他にも何首か浮かぶたびに応募していた数か月後。なんと自作が初めて掲載されていた。

誰からも見えない花に水をやるあなたみたいに強くならなきゃ

この歌は、誰も見ていなくても大切にするべき人に寄り添える親友R君、すなわち「あなた」のような強さを持ちたいという意味だ。先ほど書いたように、幸い中学時代に疎遠になった親友たちとは卒業以降また仲良くなっていた。彼らと過ごす時間がなければ、僕は孤独に押しつぶされていたはずだ。

この歌は若干抽象的で、のちに見学した歌会で「あなた」みたいに強くならなきゃなのか「花」のように強くならなきゃなのか解釈が分かれることがあった。

しかし、選者の俵さんは

花はもちろん、比喩だろう。褒められたり、羨ましがられたり、何かをがんばるのではなく、自分がこうと思ったことを黙々と貫く。そんな姿勢が「あなた」にはあり、その強さを作者はまぶしく見ている

と、完全に意図を理解してくれた。添削の前に

なので、ここからは添削というよりは、このすてきな一首をお借りして、こんな創作もできるのでは、という話として読んでもらえれば、と思う

とさえ書いてくれた。その時、短歌を通じて心と心がつながった感覚に包まれた。同じ気持ちを五七五七七のたった三十一文字で共有できたのである。

その後、母から譲り受けた俵万智さんの歌集『サラダ記念日』に手を伸ばした。何かが少しずつ変わっていく気配がした。自分の心が救われ、浄化されていったのである。

大学生活と共に短歌への気持ちも高まっていった。「こんなにも哀しみ抱え生きてても授業に出れば春はあけぼの」含め、4回選ばれたしばらく後、コーナーの最終回になった時、応募作をまとめて200首以上応募した。これも考えてみれば図々しいことだったけれど、俵さんはきちんと全部読んでくれたことを知る。

最終回で「今回の優秀歌」という実質その号の最優秀に初めて自作が選ばれたからだ。5首目の掲載だ。応募の際に、相聞歌(恋の歌)だけ「ピアノマン」のペンネームで掲載してもらうよう頼んでいたので、その通りになった。

「メアリーはどうしてトムを好きですか?」本当の理由は俺もわからない

「ぎこちない翻訳調が効いている」と、これまた作者である僕の意図をくみ取ってもらえた。そして、最終回のまとめの言葉で、一つの投稿欄に出し続けることで選者の無言の評が受け取れると書かれていた。そのうちの何パーセントかでも、僕へのメッセージならうれしいな、と思った。

しかし、困ったのはコーナーの終了だ。俵万智さんという理解者に添削してもらえる機会がなくなったのである。

そこで僕は、いろいろと調べて、俵さんが選者を務める読売新聞の「読売歌壇」を見つけたのだった。

〈続く〉

 

この記事を書いた人

小田切拓

92年生まれ。「かりん」所属。18歳の時、手に取った雑誌で短歌投稿コーナーを見つけ、歌を詠み始め楽しさを知る。結社に入り、より倍増。友人が引くほどのサッカーオタク。第66回角川短歌賞予選通過。

Twitter@rKGlC6f6HEUiU2r

自選短歌

落ち込んで「辛い」とぼやく僕の手を祖父が黙ってギュッと握った

 

記事内で言及した短歌の本

『サラダ記念日』俵万智(河出文庫)

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